ACIMワークブック294-私の肉体は、完全に中庸なものである。

2019-10-11

日常のことーユング仲間のお見舞いへ

おととい、テニス中に気を失って倒れ両手首を骨折し入院中のユング講座仲間のお見舞いに行き、それからユング講座に出た。

私より10コも年上だけどいつも明るい色のファッションを着こなす陽気で若い方が、病衣に身を包み両手首をギプスで固めた痛々しい姿でおられた。

急に歳相応に見えた。

ああ、そういえば出会ってからずいぶんな年月が経っているのだなと、2002年ユング講座を初めて受講してからのことを思いかえしていた。

その時すでに友人は講座に出ていて、それ以来のおつきあいだ。今では月1の講座だけだが、昔は先生の事務所で食べ物を持ち合ってコラージュや箱庭の会をしたり、あるいはその友人宅で食事をごちそうになったりしていたことを思い返していた。

下町の人情味と情熱に溢れた友人にいろいろと好意的にしていただき、だからこそ講座が楽しく続けられた。

気づけば17年も経っているのだなぁ…。そりゃみんな歳を取るわけだ。

友人は病気でなくケガだからか思いのほか元気でテンション高く、「こっから、スカイツリーがきれいに見えるんだよ~」と窓から外を指差す。そんなこと喜んでいる場合?、、、だよね。そのポジティブさに頭が下がるとともにちょっぴり切なさを感じた。

レッスン294-私の肉体は、完全に中庸なものである。

レッスン294「肉体は、完全に中庸なものである。」というけれど、私はまだまだ実感としては受け取りがたい。

それは、私が自分を現姿の肉体だと思い、そこに執着しているからだろう。

そして、だから、他の人のことも「肉体」だと見えているからだろう。

神が、死すべきものや朽ちるものを創造しただろうか。神に愛される神の子が、死すべきものに何の用があるだろう。しかし中庸なものは死を見ない。そこに恐れの想念はなく、贋物の愛も付与されていないからである。」(W-pⅡ.294.1:3-5)

それは、用途がある間は中庸さにより保護される。その後、目的がなくなれば使われなくなる。病気や老齢や負傷のせいではない。ただ機能として必要がなくなり、放棄されるのである。今日、私が肉体をそれ以上のものと見なしませんように。」(W-pⅡ.294.1:6-10)

私が色メガネを外して肉体をピュアに捉えるには、まだいろんな学習と経験が要るのだろうと思う。

父よ、私の肉体はあなたの子ではありえません。創造されなかったものは罪深くもなければ、無罪でもなく、善でも悪でもありません。

それならば、私たちが自分で作り出した一切の夢から覚めるというあなたの計画を助けるために、私がこの夢を使うことができますように。」(W-pⅡ.294.2:1-3)

たまたまなのだけど、おとといのユング講座内で先生が、「私たちは逆に、肉体を持っているからこそ、肉体を通していろんな人と関れるのよー」とおっしゃった。

それが印象的だった。

私も、この夢から覚めるためにこの肉体を最大限に使うことができますように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

← 戻る