『Journey through the Text of ACIM』⑧-第1章(神に対する恐れ・一体性 /1巻p40~42)

2019-10-04

昨日の続き『Journey through the Text of A Course in Miracle(JTTA)』についての1章の後半の雑記。

 1-7  Our Fear of God(神に対する恐れ)

 1-8 Oneness(一体性)

神に対する恐れーなぜACIMのシンプルな教えがこうも難しいのか

(III.5:3-9)あなたには自分の王国を自分が適すると思うところに建てる自由があるが、次のことを覚えていれば、正しい選択が必然となる。
 
霊は永遠に恩寵の状態にある。
あなたの実相は霊に他ならない。
それゆえにあなたは、あなたは永遠に恩寵の状態にある。
 
これはACIMの真髄ともいえる内容だけど、「正しい選択」が難しいわけは、私たちが神に恐れを感じているからだ。
 
p40「 神が私たちを安心させようとする言葉や行為が、このような恐ろしい脅威として経験されるのは、それが自我の死を表しているからです。」とワプニック先生。
 
p40「 もし私が霊なら、私は神と一つです。それはつまり、私が自分自身を経験するときに私そのものは存在しないことを意味します。霊のなかにも実相のなかにも、真実のなかにも『私』はいません。ただ神のみ在りー個性も、分離も独自性も、特別性もありません。」とも。
 
私たちはこの部分に、無意識ながら強烈に恐怖を感じる。もちろん恐怖を感じているのは、私たちの自我(エゴ)だ。
 
自我は、自分が、独特で、特別なことに意義を見出す。分離していることを正当化する必要があるし、「神が在る」とすれば自分は幻だということが見透かされてしまう。それだけは避けねば。徹底抗戦しなくてはならない。
 
「こんなこと認められない。認めてなるものか。
誰が何と言ったって、私はある。
個性的でみんなに認められる、特別な存在でいたい。
 
“我思う、ゆえに我あり”
 
せっかく手に入れたこの我を手放してなるものか。」
 
…と自我は言う、なのだ。
 
p40「コースの学習者、とくに長年学んでいる学習者が感じるであろう難しさの一つは、もうすでに知っていて経験も積んでいるはずなのに、依然として自分が怒っていたり、判断を下してしまっていたり、不平不満を持っていたり、あるいは一方に肩入れしていたりしていることに気づいてしまうということです。」
 
「その時激しい衝動が湧きます。『なんで私はまだこんなことをやっているんだ?この本を何年も勉強している。ワークブックだってやったのに。』しかし、このように言うときあなたは何を期待しているのでしょうか。」
 
このあたりは思い当たる節があるから、笑ってしまう。
そう簡単じゃないよな~。
表面的には「勉強している」体で、自我は生き残りをかけて巧妙化しているのだから。
 
p40「私たちは忠誠心を贖罪の原理ではなく自我に、聖霊ではなく分離に置いています。それは、神の臨在の中で私たちの個人の自己が消滅してしまうのを恐れるからです。自我に耳を傾けこの自己を強化してしまうと罪悪感を感じるようになり、私たちはそれを必然的に他者に投影することになります。」
 
このあたりのメカニズムは『神の使者』にも書かれていたし、ワークブックでも何度も繰り返されていたからよくわかる。
学習が進んで自分がしなやかになっていくというより、間違ったエゴの補強をしちゃってるかもなぁ、とはよく思う。
 

一体性

本節で気になったところを抜粋-
 
p41「私たちは、たったひとつの同じ分裂した心を共有しています。それは自我と聖霊の想念に分かれており、その二者間で選択をすべき意思決定者がいます。このように神の子は、ひとつですが霊であると同時に分離もしている状態なのです。ですから他者を赦すことによって実際は私たち自身を赦すのであり、それが神の全一性の一辺としての私たちの現実を思い出させる後押しすると教えられています。」
 
p41「後ほど『真の知覚』または『ヴィジョン』と呼ぶことになる他者への知覚を獲得することこそ、A Course in Miraclesが目標とすることです。」
 
p41「他者について判断することは、私たちが自分自身を罰せられるにふさわしい罪人だという見方を強めてしまいます。私たち、そして完全な一なる神の子は、罪人どころではありません。はるかに価値を有しています。奇跡とは、イエスが私たちに分離の想念は贖いという癒しの一体性には何ら影響を与えるものではないと教える手段です。」
 
p41「 ここで私たちを『特別』にしているのは、他者に魅力的に映る特別な能力などではなく、私たちみんなが、一なる子として一人の父の子供なのだという事実なのです。もう一度申しますが、もし私たちが誰かに愛という神の贈り物を否定するならば、私たちは自分自身を含むすべての人に対してそれを否定しているということになります。私たち全員が神の子供であるか、もしくは誰もが神の子でないか、そのどちらかなのです。」
 
p42「奇跡は、私たちが本当は一度も手放したことがない完全で豊かな状態を蘇らせます。奇跡は、分離、損失、欠乏の夢を打ち砕き、夢から覚めた私たちは一体性と豊かさという私たちのあるがままの状態に幸せに目覚めるのです。」
 
この節でワプニック先生が強調なさっているのは、「たったひとりの神の子」が在るだけで、他者と自分は独立して存在しているわけではないということだ。
誰かを「特別にする」ということは、自分と他者を分ける行為だ。
この世では表面的には個性があり独自性があり特別な存在がいるように見えるが、そこを越えて「真の知覚」を通してみれば、私たちは分けることができない神の子でありひとつだ。
 
だから、人より抜きん出ようとしたり勝ち抜けたりする必要はない。
他者は実際には投影によって見えるように感じるだけ。
他者を赦すことによってのみ、誤った知覚を取り消せる。
誤った知覚が取り消されれば、一体性と豊かさを遮るものなく感じるだけ。
だから、こつこつACIMを学び赦しをなしていこう。
 
…と、そういうことかな。
 
 
またまた、まとめるまでいかなかった。出たとこ勝負の思いつきの雑記。
 
来月からは、訳さず英語で読むことに挑戦しよう。
こんな細かく雑記を書いちゃうこともなくなるかな。

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