「すべてがユルい春子の日記」を読んで、自分の自己肯定感の低さに気づいた

2019-08-29

絶叫するツクツクボウシ!

今朝ウォーキングしようと部屋を出たら、すごい音量の鳴き声が聞こえた。

ツクツクオーッシッ!ツクツクオーッシッ!ツクツクオーッシッ!

ツクツクボウシだ。

近くにいるのかな?と思ったら、エレベーター前の壁に張り付いてた。

ツクフィーョオー!ツクフィーョオー!

この世の終わりみたいな声で鳴いている。表情はわからないが、わかったならすごい形相だったろう。私がそろそろと前を通ったら飛んでいった。

「すべてがユルい春子の日記」

最近はまっているブログがある。

「すべてがユルい春子の日記」

春子さん、57歳でこの春から音大受験をめざし、13歳のときに止めたピアノのレッスンを再開している。

私は先々月にこのブログを見つけたのだけど、その勢いはすごくて、所有していたワンルームマンションから先月ピアノ可の物件に引っ越し、ローンでグランドピアノを購入。それなのにパートも辞めてしまった。

どこがユルいの!とブログ画面にツッコミを入れてた。ユルいっていうよりよく言えば行動力がある、あいていに言えば無謀なのでは!?

つい気になってさかのぼって読んでみたら、最初は昼夜逆転気味のひきこもり状態で、たしかに「ユルかった」。

それが、心理学のセミナーを受けたりして虐待を受けていた親との関係性を見つめ直し、自己肯定感を高めていき、その後ライフワーク探しをして、「本当はやめたくなかったピアノ」を再開し、「行きたかったけど認められなかった大学受験」に行きついたのだ。

律義に毎日更新されているので、最近は毎日覗いてる。毎日深夜12時に更新されていて、最近は朝起きてすぐ覗く。

「好きこのんでイバラの道を歩まなくていい」

その春子さんの今朝のブログのタイトルは、「好きこのんでイバラの道を歩まなくていい」

新しい仕事の就活をしていて先週めでたくパートが決まり働き出していて昨日で3日目。

それが「これまでの人生でいっちゃん待遇のいい会社」で、「だから、落ち着かない。」と書いておられる。

「ホント、『不幸』なほうが落ち着く。うっかり『いい会社でよかった』なんて思ったら、たちまち天罰が下るような気がしてならない。」と。

過去の会社勤めでサービス残業を思いっきり頑張っていた経験を述べておられ、

「そのころのワシのモットーは『エサをもらえなくても芸をする犬になる』ってことだった。」と…やれやれ(^_^;)

そして、その原因についても分析されていて、

「ホメられたい」…モトを正せば「親にホメられたい」

「さらにもっと深掘りすると、『自分が“自分の価値”を認めていない』ということに行き着く。」

さて、こんどの会社に雇ってもらえたのはなぜだろう?
それはたぶん、“自分を許す”ということを学ぶためかもしれない。

「なんかずっと『苦労してないと、自分に値打ちがない』と思い込んできたけど、そりゃちがうよな。ワシでなくてもだれでも「そこにいるだけ」でじゅうぶんなんだよね。
『ただ生きて存在しているだけ』でええんですわ。」と締めくくられている。

この世でヘタレだろうがなかろうが、どーでもいい

その一連の自己洞察に感心した。そしてなぜか私は、自分の昨日のブログを読み返し「私もやっぱり自己肯定感低いよな~」と思った。

頑張れてない自分を「ヘタレ」と呼ぶことで貶めて、この世にいる「免罪符」にしているように感じたから。自分自身がどう思っているかはともかく世間に向けて、自分をそう言っておかないといけない気がするのだ。

今朝歩いているときにふと感じた(これ聖霊さんのメッセージかな?)。

「あなたが、ヘタレだろうとそうじゃなかろうと、まったくどーでもいい。それは、箸を持つときにどっちの箸を親指側にするかどっちを人差し指にするかと同じくらいどーでもいい。」と。

お箸の例えを聖霊さんが使うかな?わからないけど、例えとしてはわかりやすかった。

誰に対しての、「私はこれで存在していいでしょうか免罪符」?

春子さんの「ワシでなくてもだれでも『そこにいるだけ』でじゅうぶんなんだよね。『ただ生きて存在しているだけ』でええんですわ。」でハッとした。

クセは変わることはないかもしれないけど、自分を責めてもいいことまったくない。それこそ百害あって一利なしだ。

他の方が書いたものやその在り方はわかりやすい。これからも、春子さんのブログから気づくことが多そうだ、と思っている。

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