ACIMワーク278-私が束縛されているなら、私の父も自由ではない。

2019-07-19

凄惨な放火火災のニュースを見て

もし私が、生命あると思える一切のものが死んでいくかに見える世界で、自分は一個の肉体に閉じこめられた囚人だということを受け入れるなら、私の父もともに囚人だということになる。」(W-pⅡ.278.1:1)

そしてまた、もし、世界が従っている法則に自分も従わねばならず、自分が知覚している脆弱さや罪は実在から免れないものだと主張するなら、私はそれを信じていることになる。」(W-pⅡ.278.1:2)

正直言うと、ACIMを学んで赦しの実践に努めたとしても、一度や二度の人生では、この世が“生命あると思える一切のものが死んでいくかに見える世界”じゃない、自分も“一個の肉体に閉じこめられ”ている存在ではない、と心から思うことは難しいんじゃないかと思う。

この世は自分が見ているいろいろなイメージと同様、一つのイメージ映像にすぎないのだろう。しかし今のところそれはあまりにも堅固だ。“方針”を変えてこの世に寄りそいある程度うまいことやる方向に切り替えたほうが“実用的”ではないかとさえ思う。

昨日の夕方、恐ろしいニュースを聞いた。京都アニメーションという会社の放火火災で33名が亡くなったという。重傷、軽傷の方も36名おられるという。

ひどい事件だ。

ガソリンを撒いて火をつけ、それが爆発して炎上したという。社屋ビルの窓から燃え盛る炎が見えて、なんて怖ろしいこと…と思った。

私たち実在しないカケラはそれぞれが無意識深くで自分の一生と言われるものを決めてきていると、たしか『神の使者』のどこかで読んだ。

でも、夢や希望に満ちた社員の方々それぞれの意識は、まさか今日そんなことが起こるなんて思っていなかっただろう。もちろんそのご家族も。

強い恨みが動力になっていると思われるが、犯人の男性の胸中はどんなだったのか。もちろんこれは妄想だし、つまるところ自己嫌悪の投影だ。

心の力というのは、この世でポジティブにもネガティブにも振れるけれど、強力で本当に怖ろしいものだと思う。

最近こういう憎悪を剥きだしにした事件多くないか。先週は目黒区の路上でトラブルになり男性が傘で突かれて片目を失明したと聞いた。ガソリン、傘、車…心次第で何でも凶器になりうる。世の中は便利にはなるけれど、幸せには向かってないと感じる。

「他人を変えるのではなく、自分自身の心を変えなさい。」

しかし、ACIMに戻れば、「怒りは決して正当化できない」。

『神の使者』の再読で今読んでいるところのパーサの言葉(旧版p254)、

「他人を変えるのではなく、自分自身の心を変えなさい。個としてのアイデンティ喪失への恐怖が赦しの実践への抵抗の原因だってこと、ときにはその抵抗がとても激しいことを忘れちゃだめよ。

場合によっては、世界であれ自分自身であれ、そこにあるエゴを見ようとする気持ちまで邪魔するでしょう。だから、いつも気をつけておきなさい。

あなたの心の水面下には憎悪がある。」

という部分も、このニュースを見て私が感じたことと関係があるように思う。

これは私自身が投影して見ていることだ。

こういう凄惨な事件を見て、「奇跡に難しさの序列はない。ある奇跡が他の奇跡よりも『難しい』とか『大きい』ということはない。」(T-1.Ⅰ.1:1-2)などと思い出すのは、不謹慎な気がした。

だけど、私が聖霊とともにできることはこのレッスンの終わりの文言、これなんだろうと思う。

今日、私は夢を見たくありません。私は狂気や恐れのかわりに、あなたへの道を選択します。真理は安全であり、愛だけが確かなものだからです。」(W-pⅡ.278.2:3-4)

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