『Journey through the Text of ACIM』②-第1章の始め(p21~25)

2019-06-28

第1章の初めを読み出した

6月3日から『Journey through the Text of A Course in Miracle』を読み始めて約1ヶ月。その備忘録。

序文や用語解説らしきところは飛ばして(重要なことが書いてあると思うけど)、第1章(p21)から入った。う~むと唸りながら何とかp25まで読んだ。

ワプニックさんはすべての項目を1つずつ説明するといったことはなさっていない。ポイントとなる原理や段落、文章をピックアップしてそれについて説明なさっている。説明する箇所の段落が飛んだり順番が変わったり、またあとで前の項目が並んだりする。

私が今回読んだ見出しは、第1章のなかの次の2節

○(仮に1-1)原理1:奇跡に難しさの序列はない。

○(仮に1-2)レベルの混同―心と体(一部)

自分の理解のために訳したけれど、それがちゃんと意味を捉えているか不明。また私はワプニックさんの説明される体系が入っていないので、とんちんかんな捉え方をしているところもあるかと思う。

「奇跡に難しさの序列はない」の意味

まず、原理1:「奇跡に難しさの序列はない」とⅠ-1の原理を挙げ「すべてはこの1つの原理のために費やされると言ってもよいでしょう。序文でも述べたとおり、A Course in Miracleのすべての思考体系がここに含まれるからです。」と口火を切る。

この節で書かれていたのは、この世における問題の存在とその目的、および奇跡との関係。

問題とはすなわち、やっかいごとである。それには、小さなものも大きなものもあり、解決が容易なこと、難しいこと。身体的なこと心理的なこと。複雑に入り組んでいる。また集団レベルでも、人種のこと、社会的なこと、宗教上、経済的なこと、国のこと、国家間のこと…挙げればきりがない。

そして、その目的は、私たちの気をそらすことだ。

何から?

問題の真の在りかから。

もちろん、問題は私たちの間違った心のあり方、自我によって設定されたものだ。

JTTAワプニック解説本では「私たちの注意をひきつけてやまない絶えることのない問題は、神の記憶を心に永遠に埋め忘れたままにしておくことに役立っているのです。その上、私たち自身がこのようなことをでっち上げているという事実も同様に忘れさせてくれます」(p22)とある。

問題とは外にあるのではない。心のうちにある。

心のうちに、たった一つの問題があるだけだ。それがさまざまな態様で、外界に映し出されている。

奇跡の難しさに序列がないのは、それはただ投影されていて真の意味では実在しない世界での序列(ルール)を適用しているから、という。

真の問題は、私たちの心が間違った教師を選んでしまったということである。問題が本当にあるところでそれを解決しようとする試みが「奇跡」であり、それをがっつり学ぶのが「奇跡講座」である。

そして真の見方を身につけるよう導く。

真の見方とは、(神との)分離は決して起こらなかった、ゆえに今も私たちは神とともにあるということだ。

「ひとたび問題解決の方法として奇跡を選ぶようになれば、問題が病気だろうと不寛容さだろうと世界情勢だろうと、そのかたちに関わらず、私たちは知覚された問題の大きさにはまったく影響を受けません。聖霊の贖罪の原理に従うことによって、問題は罪を選んだ心の中だけに存在するものなのだと認識されます。」(p23)

心と体のレベルの混同

そして「言い換えれば、奇跡は私たちの心と肉体のレベルの混同を正すのです」(p23)と述べる。

ズバリ言ってくれるなぁと思うのはここ↓

「傲慢にも私たちは、自分たちがでっちあげた問題を、イエスあるいは聖霊、もしくは神自身に解決してくれるよう迫るのです。ですが、そもそもこれらの問題は本当の意味で解決されることはないように作られています。それにも関らず尊大にも神に私たちの過ちを正すよう要求するのです。

しかし実のところ、私たちは問題が解決されることは望んでいません。そうしてしまったら、責めを負わせるべきところがなくなってしまうからです。それどころか実際には、責任を自分たちから逸らすためならどんな努力も惜しみません。」(p25)

あわあわ…

そして私たちは自我の思考システムと自己を同一視しているため、奇跡の眩さを恐れるが、分離と有罪性という間違った考えが投影された影こそが肉体であること。そのため、真の喜びや精神性というものについてはとかく見方を誤りやすく、心と肉体のレベルを混同したい誘惑にかられるといったことが述べられている。

こう書いていくと肉体には夢も希望もないかのように感じられるが学んでいくことで、エゴの手段である肉体を赦しという正しい目的のために用いることも可能だと続ける。

ワプニックさん本どおりに、新たな“問題”を作ってしまったワタシ

私は、この箇所を読んでいたさなか、小さな甲状腺がんで通っている病院の定期検査で、肺のガラス状陰影(甲状腺がんを患う人にはまま見られるものらしい、1㎝を越えると肺がんとして専門医にリファーされるのだとか)が少し大きくなっているということで、リファーするから受診するようにという呼び出しをもらった(まだ行けてない)。

ワプニックさんが「自我は本質から意識を逸らすため次々と問題を作る」とおしゃっているように、まさに間違った心の投影によって、新たな問題を作ってしまったのか、とガックリした。

心はガタガタし、勉強していたと思っていたが“また失敗してしまった”と思った。

これこそが心と肉体のレベルの混同というものだろう。

奇跡は私に必要だ。

自我は小躍りして喜んだに違いない。目的たっせ~ ( ¯﹀¯ )

…もとい、問題の在りかに向かわなくちゃ。

問題をリアルにしないで本当のところで解決するには聖霊の導きに従うこと…と。具体的にはどうしたらよいのだろうか。

どんな病気なのか、治療法は?など調べたいけど、それは問題をこの世でリアルにしてしまうことにつながるのかな?

このことについて聖霊をイメージしたら、聖霊さんはある方向性を示してくれたように感じたけど、それは私には実行可能かな?

ワプニックさんのJTTA解説本の元のエッセンスからの“歩留まり”は、英語→日本語へで70%、そこからワプニックさんの考えを理解することで50%くらい。

で、結果0.7×0.5=0.35 3分の1くらいの理解度かな。

ワプニックさんの思考と英語に慣れてくれば、もう少し理解できるようになるかと思う(が、その前に読むのを止めなければ…が前提。。)。

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