2019-05-27
聖霊のこえ「大丈夫」
WordPress勉強会中にブログを消してしまいログインもできない状況だったのを懇親会の場で主催者の方に直していただいたことは、昨日のブログに書いたとおり。
主催者の方が居酒屋さんの隣席で私のノートパソコンであれやこれや復活を試みてくださっているとき、私は最初のパニック状態が少し収まり聖霊さんのことを思い出した。
そして聖霊に耳を傾けてみたら「大丈夫」と感じた。
「大丈夫、静かにしてなさい」
あ…ほんと?よかった
それをその場で口に出さないだけの“分別”はあった。「聖霊は大丈夫と言ってるから直ると思う」なんて言ったら、場を凍りつかせてただろう。それにほんとうに大丈夫かどうかもわからなかった。
ふぅ…。
何はともあれ、よかった。ほっとした。ありがとうございます。
私たちは「神からの分離」の再現ドラマをあらゆるかたちで見ているのだろう。それがそもそもの始まりだ。
それでも私たちにはここで、この幻想のなかで“生きて”いるのだし、そこでの“問題”を“解決”したいと思うのも、私の思いだ。
ACIMワーク263-私の聖なる 心眼 は、すべてを清らかなものと見る。
その勉強会中に書いたブログ記事内で、ひとりで勉強会に参加することが不安だったこと、その不安のひとつに歳(参加者の平均より歳がいってそうなこと)があったことを書いた。
前はスッとできたことがここ数年どんどんできなくなっている。理解に時間がかかる。行動もそう。気力、体力が乏しく疲れやすくて、帰宅後長時間動けない。そうしたことからくる劣等感、不安感。
でもさまざまな不具合を「歳のせい」にしていたけれど、一昨日来日したトランプ大統領(72歳)の精力的な活動を見ていたら、歳のせいというより個人差なんだなと思った。
劣等感があるというのは、私が人と、あるいは若い頃の自分と比べているということだ。
劣等感も罪悪感のバリエーションのひとつなんだろうし、リアルにすべきものではない。
年齢を劣等感の要因にしている私は、年齢による差別をしている。
“身体”が格差や差別の要因になってはいけないと思う。
・若さ
・健康度
・美しさ
こういうものと闘ってはいけない。私たちは誰かを出し抜く必要もない。
それでも聖霊とともにあれば自分なりの健やかさを求める気持ちは自然なものだし、神の子の帰還に役立たせることができるだろうと思う。
「まだ天国の門の外にいる間は、目に入る一切のものを、神聖な 心眼 を通して見ることができるようにしよう。」(W-pⅡ.263.2:1)
「すべての現像が私たちの目に清らかに映り、それらの前を罪を知らずに通過し、皆が一緒に神の子どもたちとして、兄弟として、父の家まで歩んでいけるようにしよう。」(W-pⅡ.263.2:2)