ACIMワーク247‐赦しがなければ、私は見えないままである。
2019-02-25
些細なゲンジツに一喜一憂するワタシ
枯れた木に新芽が出ている。3月近し。いよいよ春到来の気配。
甥っ子が第3希望の大学に進学が決まったと母から電話。「あんたも電話してやりなさい」。
先日甥と話してからも妹から連絡があったわけじゃないし、電話しても機嫌が悪かったらヤダなと若干気が重かったけど電話した。
今度は妹もいた。
「進学先決まったんだって、お母さんからうれしそうな声で電話があったよ」と私。
「お姉ちゃんにこの前からいろいろ頂き物しているのに電話もしなくてごめんね」「大学のこともこちらから連絡しなくちゃいけないのに」と妹。
進学先が決まって機嫌がよかったのかもしれない。その言葉に私はみるみる解けて癒されていくのを感じた。
現実ではないと自分に言い聞かせつつも、やはり気にかかっていたのだ。最近は「お姉ちゃん」とも呼んでもらえなくなっていたから、「お姉ちゃん」と呼んでもらえるだけでうれしい。
こんなささいなことでも、私には大事なんだな。
私の在り方はこの世のすべてを赦すという態度とはほど遠いのだった。
でも、ACIMの教えに倣って電話をかける前に不安感を手放すということを何度かやっていたため最初から不安をぶつけずに済んで、和やかなゲンジツが得られたのかもしれない。
私には子どもがいないから、甥っ子は母の唯一の孫であり未来の世への希望をつなぐ存在。
そのことだけでも妹には頭が上がらないと思ってしまう。
ACIMワーク247‐赦しがなければ、私は見えないままである。
「罪は攻撃の象徴である。罪をどこかに見ている限り、私は苦しむ。赦しだけが、私にキリストの心眼をもたらす手段だからである。」(L247-1-1,2)
「兄弟よ、私の所にきて、あなたの姿を見せてほしい。あなたの麗しさが、私自身のそれを映し出す。
あなたの無罪性は私の無罪性である。あなたは赦されており、私はあなたとともに赦されている。」(L247-1-5,6,7,8)
このとおりだ、と抽象的概念としては理解できるけど、自分の身に具体的な事象がおこるとすぐわけがわからなくなってしまう。
目の前のことに感情が揺らぎ、『奇跡講座』の概念のほうがウソくさく思えてしまう。
どちらが真実でどちらが偽りと思えるか。心の中に切り替え装置でも付いているみたいだ。
私の無意識の恐怖と罪悪感の埋蔵量はどれぐらいのものだろう。
ワークを始めて5年余り。0.1%ほどでも手放せただろうか。
たとえ行き先は見えなくても方向はわかったのだから、磁石の指すほうを目指したい。