ACIMワーク246‐父を愛することは、父の子を愛することである。
2019-02-22
早くも蘭が咲いた
蘭の花が咲いた。
例年5月頃咲くのだけど、引っ越ししてから西日が入る部屋になり蘭は「咲こう」という気分になったのか。
もともと仕事で一緒に出かけた方に小さな鉢を買っていただいたもの。今ではかなり野性的に育っている。
蘭の花がほころんでいくのを見ていると春が近いと感じる。
母から甥っ子が滑り止めの大学には合格が決まったらしいと聞き、電話をしてみた。妹は外出中で甥っ子だけだった。
そこで、合格したってね、と話しつつ、送ったけどリアクションがなく気になっていたチョコのことを聞いてみた(参照:2月16日ダイアリー)。
「忘れてた」と気の抜けた応え。
着いたかなと気になったからメールでもしてね、と言いながら、甥には何らの感情的こだわりがないことに気づく。
私が意識してしまっているのは妹のほうだった。
子どもの頃はかわいい、かわいいだけだったけど、大人になって妹が旅先で家族みんなに怒りをぶつけたことがあり、その姿が昔の母を思い起こさせ私の心に壁ができたのだった。
私は「許せない」と思っていた母を赦したつもりで、そうではなかった。母が老いて弱者になり丸くなったから、その感情がうずくことがなくなっていただけだったのかもしれない。
支配的に感情的に振る舞う妹にかつての母を見て、それ以来感情が揺れるようになったのだ。
認めたくないが、それは私が隠している自身の姿そのものでもあるんだろう。
また妹には別の感情もあった。
私は高校卒業して進学のため家を離れた。とにかく母から離れたかった。
一方私がいなくなった家では、思春期を迎えた妹がひとりで母のパワハラ的しつけを受け、それはかなりしんどかったらしい。パワーある妹は反抗で返したらしいが。
その「自分だけ逃げ出した」というどこか罪悪感めいたものが、妹に対してあるのだ。
妹に若かった母のおもかげを見てざわつく気持ちと、「逃げた」という感覚、両方とも「神から離れた」という原初のできごと(もちろん実際には起こってない)の、別バージョンの再現ドラマだ。
それこそが私の心に根っこがある勘違い。私が赦すべきことだ。
そうやって“分析”はできるものの、それですっきりおしまいというわけにはいかない。心の深みにある感情を表面化して手放していく時間という幻想の経過が必要だ。
親や兄弟、夫、妻といった近しい「特別の関係」は、ACIMの中でも手ごわいものなんじゃないかと思う。
ACIMワーク246‐父を愛することは、父の子を愛することである。
さてレッスン246。
「胸に憎しみを抱いたままで神への道を見出せるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-1)
「神の子を傷つけようとしながら彼の父や私の真の自己を知ることができるなどと、思うことがありませんように。」(L246-1-2)
「自分自身を認識できないまま、父を自覚できるとか、父から私への愛や私が父に返す愛が思い描けるなどと、信じることがありませんように。」(L246-1-3)
まさに!
振り返って、最近はワークをやっていてもおざなりで上滑りしていて“エゴ主導”になっているかも、とも思った。
起きていることはすべて赦しの機会を含んでいる。
私がいろんなことを正当化して自分の赦しを遅らせることがありませんように。
知っていることを実行するだけの勇気が持てますように!