2019-02-16
赦し…言うは易く行うは…
「赦し、赦し」とそればかり口にしているくせに、ささいなことでもひっかかってしまう。
甥っ子にバレンタインチョコを送ったがリアクションがない。甥っ子はとても大人しく口数も少ないが、妹は高3の受験生に「余計なことを」と思っているかも。
妹の誕生日があったから2月初めには妹にもチョコを送っていたが、それに対してもまったくノーリアクションだ。
仲が悪いわけではないけれど歳が離れているのもあって、妹が家庭を持ってからあまり行き来がない。
自分が勝手に送ったくせに…しかもささやかなもの。だけど、なんだか軽んじられている気もしてしまう。
それが自分の“罪”を赦すための赦しの機会だということは知っているくせに…。
気になったなら気軽に電話すればいいだけのことだけど、それもできず。
ACIMワーク243‐今日、私はどんな出来事も裁かない。
滞っているワークについて書こうと、「今日はどこから?お題は何だっけ」と見たら(ワークをやるのとブログに書くのとの間には少しズレがある)、これだった。
「今日、私はどんな出来事も裁かない。」
そう…、私は裁きたくなっていたのだ。
たかだかチョコレートの受け取り連絡がないくらいで、ネガティブに振れてしまうとは…
ACIM学習者ならずとも小さすぎる。
私は大昔家庭教師をしていたお宅から結婚祝いに高価なランプをいただいたが、お礼の連絡をしそびれたという大失態をしたことがある。
実家に宅配便で送っていただいたのだがその時慌ただしかったこともあって何か紛れて連絡しそびれてしまったのだ。
こう書いているだけで未だにピリピリする。なんでできなかったんだろう。
自分がそんな大それた失礼なことをしておきながら、人には小さなことでも見咎めようとする。それが私…
レッスン243の文言は穏やかに諭す。
「今の自分の理解が及ぶはずもないことを、すでに知っていると思わないようにする。知覚の断片から、全体が理解できるなどと思わないようにする。」(L243-1-2,3)
「それにより私は、もともと自分にはできない判断を下さずにすむ。」(L243-1-5)
すべては赦しのために…なんだよな。
私の見方が変われば、世界も変わる。それはワークを通して何度も経験している。
私に赦すべきことがあるから、見せてもらっていることなのだ。
私は今も神とひとつなのだから、自分も他者も裁く必要はない。