2019-01-18
『神の使者』をまた初めから
きのう掃除をし始めたら、気づいたら大掃除になっていた。
いつもわりとまめに掃除しているし引っ越してまだ7ヶ月、不要なものもないと思っていたけれど、知らないうちに未処理物、未分類物がここかしこに溜まっていて重たくなっていた。
物をこれ以上増やすまじと思うけど、気づくと増えてるんだよな~
ようやく世間の人の年末大掃除の頃にたどり着いたのかもしれない。
遅っ、
相変わらずだけど。
夜には『神の使者』を再読し始めた。この本は古いバージョンの本を3冊持っていてそのうちの1冊が日頃読む用(あとの2冊は予備)。
また、アーテンとパーサがゲイリーの前に現れたところから。
何かの変わり目にはつい読みたくなるのだ。『奇跡講座(ACIM)』を学ぶきっかけとなった本だから、その動機みたいなものを確認したくなるのかもしれない。
私の『神の使者』は付箋とマーカーだらけだ。
黙読しながらマーカーを引いた部分は音読するのが自分の中での流行りになっていて、そうやっているとこの分厚い本を読み終えるまでやたら時間がかかってしまう。そのうちに日常にまみれて中断してしまうこともままある。
ここは戻りたくなるところ。だからそれでいいのかもしれない。
私はACIMというより『神の使者』を信じている(というかすがっている)のかもしれないと思う。
ACIMワーク236‐私は、自分だけが統治できる自分の心を統治する。
L236で気になったところ。
「今日、私は心の働きを聖霊に差し出し、聖霊がふさわしいと思うものに使ってもらう。」(L236-1-6)
「そのようにして、自分の心を自由にし、神の意志を行えるようにする。」(L236-1-8)
私はやっぱり聖霊さんのメッセージが受け取れているかどうかわからない。
いや、受け取れているけれど聞きたくないものには耳をふさいでいるのかもしれない。だから、わからないと言っている気もする。
耳元で大声でくりかえし叫んでいるのに、私がただぼんやりしているのだとしたら、聖霊さんは呆れているのではないだろうか。
もう私をサポートするのに嫌気がさしたりしているのではないか。不安だ。
自分のエゴのものさしで確証が得られないことは受け取りがたい。
エゴのものさしと聖霊のものさしはまったく別だから、私は未だにその二つの間で揺れている。
少しずつでもこのコースの歩みを進めたい。
こう書いた時、「そのためには気づいたことをやる」というフレーズが頭に浮かんだ。
と同時に、怖っと感じた。