「自分を愛してあげて」 最初のdoは自分を愛すること

2018-10-03

最近は少し意識して聖霊の声を聞こうと思っている。

そんな今朝のワーク。

聖霊さんが私に何か伝えたいことは?…と心の内に耳を澄ますと…

自分を愛してあげてください」と小さな声を感じた(聴こえてはいない)。

「わからなくても、

ただ愛してあげてください。

私は神の子なる私を愛します』と心の中で、自分に伝えるだけでいい。

 

あなたは自己否定しながら、

何かをやらなくては(do)と焦っているけれど、

doの最初の一歩はこれですよ

 

自己否定しながら行うdoと、

自分を愛して行うdoは、

その行き先がまったくちがう。

まず落ち着いて、

自分を愛すると、意識したらどうですか。

 

そうなふうなことを言われた気がした。

働けていない現状に焦りがある。

おカネは不労所得もあって、今すぐ困るというわけではない。

過去の私のパターンからも、勤務するのが正解とも思えない(雇ってもらえるかというのがその前にあるが)。

できれば、在宅で収入を得られる小さなしくみを作れないか、などと甘いことを考えながら、そのスキルも身に付けられないまま時間が経っている。

体力気力ともに乏しく、めまぐるしく変化する世の中に付いていく能力も、コミュニケーション力もない、と思っている。

一方そういった自分を赦そうともしている。

その私に向けてのメッセージだろうか。

 

今朝のウォーキング途中、道の真ん中で70代と思しき男性が、乗っていた自転車に挟まるように倒れていた。

通行人の男性が車によけるよう合図を出しながら助け起こしているが、足が挟まってか男性はまだ立てない。

通勤の人は足早に駅に向かう。

私は足を止めた。大丈夫かな。

…と、その時、私の後ろから、自転車に乗ってきた女性が、自転車を降りてすっと助けに加わった。二人がかりで男性を起こそうとする。さらに別の方向から来た女性が駆け寄って加わった。

三人でおじいさんを持ちあげ、その下の自転車を取り除いている。

私は強い恥ずかしさを感じながら、その場を去った。

私、大丈夫かと思っていただけで、まったく動けなかった。

歩きながら、心配したけど非力な私なんかが近づいてはいけない、逆に足手まといになるという思いがあったのだと、気づいた。

助けに加わったのは、二人とも女性だ。判断はとても素早かった。

私ってば…、この世は幻想…と思う習性が身についたというのもあるのか、何でも一歩引いて見るようになっている。

それもあって動けなかったんだ、と反省した。

 

思えば、「この世は幻想だ」と言いつつ、逆に、私が今在るなかでは、私の方が幽霊みたいに幻想になってしまっているんじゃないか、と思った。

『奇跡講座』が意図するのは、こういうことじゃないだろう。

 

そんなこんながあって、今朝の“メッセージ”なのかな?とも思う。

稼いでいないのは不安ではあるけど、手元にあるおカネを使っているのだから、大目に見てもいいと思っている。

せっかくのこの時間とスペースを、好きに使えていて感謝もしている。

だけどだけど、やっぱり、自己否定があるかな?

それは、幼い頃からの自分のくせでもある。

 

最初のdoは自分を愛すること、かぁ…

まぁ、定番ちゃ~定番だけど、だからこそ、今の自分が意識すべきことなのかもなぁ

 

 

 

 

本庶佑さんノーベル賞受賞に、あるACIM学習者が思ったこと

2018-10-02

本庶佑さんがノーベル賞を受賞

[caption id="attachment_4528" align="alignright" width="300"] 本庶佑さん NHK NEWS WEBより[/caption]

昨日のニュース速報で、京都大特別教授の本庶佑(ほんじょ・たすく)さんがノーベル医学・生理学賞を受賞されたとの一報が入った。

なんでも、本庶先生は、免疫の働きにブレーキをかけるたんぱく質「PD-1」を発見。このブレーキを取り除くことでがん細胞を攻撃する「がん免疫療法」の開発に結びつけられたとのこと。

「がん免疫療法」は、手術、放射線治療、抗がん剤治療に続く、第4のがん治療法で、研究成果を基にした治療薬オブジーボは副作用が少なく大きな成果をあげているらしい。

今朝の番組ではそのお人柄も紹介され、

「一生をかけるなら、リスクが高くても、やりたいことをやるべきだ」

「誰も見向きもしない石ころを磨き上げ、ダイヤモンドに仕上げていく。混沌とした状態の中から立ち上げるところに、大きな魅力を感じる」

といった言葉も紹介されていた。

詳しいことは理解できないが、先の見えない、地道な根気がいる研究だと想像できる。

すごーい、素晴らしい。

病気の原因は罪悪感と捉える『奇跡講座』の考え

一方で、私は『奇跡講座(ACIM)』の学習者の端くれだから、病気や治癒について、ACIMがどういうスタンスをとっているかも、ある程度知っているつもり。

とくにワークブックの以下の文言にはインパクトを感じた。

「あなたは、山積みにした紙切れの束と大量の円形の金属がない限り餓死してしまうと、本気で思っている。小さな粒状の固体や、鋭い針で血管に注ぎ込まれる液体が、病気や死を寄せつけずにいられると、本気で思っている。

このようなことを考えるのは狂気である。」(L76-3-2,3、4-1)

罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。

病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」(L140-4-3,4,5)

ACIMによれば、病気の原因は罪悪感であり、薬が病気を治すのではなく、その基となる罪悪感を取り除くことこそが治癒をもたらすという。

それでも、この世のあるものには薬効が認められ、それで病が治るのだから、そこには因果があるように見える。

もし根底の罪悪感がそのままならば、ある幻想をもう1つの幻想に取り換えただけということになるかもしれない。

そうであっても、取り除きたかった最初の幻想が取り除かれることは、大きな望みをもたらす。

『奇跡講座』の教えをこの世でどう適用するか

要するに、私は、『奇跡講座』のこの世への適用(方法、程度)がよくわかっていないのだ。

この世はエゴが神に対抗して見せている幻想…、そして、その幻想からめざめることが、『奇跡講座』。その訓練がワークブック。

だけど、その幻想は私たちに多大な影響力があるから、幻想であってもよりよい幻想がいい、と思う。

幻想だからといって、ご飯を食べない、骨折しても幻想だからそのまんま、お医者さんも薬も投げ出す、というわけにはいかない。

どの部分を幻想と受け流し、どの部分はここでの仮の自分を維持するために大事、と捉えるかの塩梅がわからないのだ。

こんなことを考えている私は、ばかなのかな。

ACIMは正しいと思う。だけど、肉体を持ってこの星にいる私は、どう適用したらいいんだろう。

そうこうしているうちに、この世で生きるスキルらしきものの低下が著しいことに気づく。あ゛…(・・;)

おそらく答えは「聖霊の導きに従う」ということだと思う。(←今思いついた。なんて、自己完結的なんだ)

そうそう、いつも言われている。聖霊に聞く、だ。

聞いて、塩梅も打診しながら進むんだよなー。その練習かー。

ACIMレッスン211-レッスン191の復習

2018-10-01

台風24号通過

昨夜は、台風24号が関東を通過、マンションごと吹き飛ばされそうな、ものすごい風音だった。

家の中は安全なはずと思っても、怖くてなかなか寝付けなかった(参考:2018.7.4記事。ふとんをすっぽりかぶって縮こまり、今やっているレッスン(L213=L193の復習)の文言、

私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)と何度も唱えた。恐いのは収まらなかったけど、いつの間にか眠っていたらしい。

翌朝の散歩でも、店のテントが落ちてしまっていたり、ショールームの植木が倒れて植木鉢が壊れたり、といった台風の爪痕があった。

沖縄では高さ25mの巨大観音が倒れて損壊したとか。「非常に強い」台風は昔からこんなに多かったっけ?

これも、地球温暖化の影響なのかな?

「経済発展」のつけを環境に払わせてきた、その代償なのか?これは、、いったい、、発展していると言えるのかな?

それとも、これもやはり赦すべきことなんだろうか(たぶん、そうだ)。

レッスン211―レッスン191の復習

(レッスン191)私は神ご自身の聖なる子である。

私たちの真のアイデンティティは、「神の子」(the holy Son of God)だ。

罪と恐怖を司る神ではなく、愛と感謝そのものの神の子だ。

これを受け入れること。

そして、神がこの世を創ったのではないと知り、神以外のものを手放すことで、この世から解放されること。

これがACIMの道のりだ。

いつも思う。とってもシンプルだ。

だけど、この世はあまりにリアルだし馴染みがある(ここしか知らない)から、私たちは自分が本当は誰なのかを忘れたまま、ここでの出来事に大忙しだ。

だがこれは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外の何だろうか。」(L191-4-1)

私は、この文章がとても好きだ。

これを話したイエスはとてもユーモアのあると思う。

この世は「自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム」…かぁ。

あなたは死のゲームに興じ、自分に対し無慈悲な世界で、哀れにも破滅に向かう無力な者を演じている。」(L191-9-3)

なるほど。

たしかに。

どんなに栄華を極めても、結局は何十年後かに必ず衰えて死ぬという人の運命。

だけど、だけど、

「神の子」だと心から受け入れそのように振舞えば、「死のゲーム」は終わる。「神の子」は永遠だ。

不思議なのはこの世で渦中に入ったとたん、ACIMの教えが信じにくくなったり、あるいは後から考えると自分に都合がいいように歪曲してしまうことだ。

次に渦中にあるとき覚えていられたらいいと思う。

「削ぎ落せ」

このワークをやっていて感じたことは、「削ぎ落せ」ということ。

引っ越しでけっこう断捨離できたつもりだけど、まだまだいらないものをたくさんくっつけているんだ、と思う。

そして、隙あらば、さらに「いらないもの」を増やそうともしている。

自分でないものを削いで、削いで、自分になっていく。

それと、このワークに直接関係ないけれど、私には根深いところでおカネに対するブロックがあることが思い浮かんだ。

最近、新たな収入の源を祈りの祭壇に捧げているのだ(新たな自分の収入源を求めていて、祭壇に捧げ、日中はそのことを忘れる…)。

おカネはおカネという金額ではなく、豊かさの映しだ。豊かであってもいっこうに構わない(構わないどころか、とても求めている)。

そしてまず、今ここでこうして過ごせていられることは、とてもありがたいこと。そのことに感謝。

まず、そこからだ、と感じた。

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