2018-10-29
「自己責任論」と「社会的使命論」で論争!?
シリアの武装勢力に拘束されていたジャーナリストの安田純平さんが、先週解放されたとのニュースがあった。
3年4ヶ月もの長い拘束。どんなにかきつく暴力と恐怖にさらされた生活だっただろう。
私は、単純に、助かってよかった、と思った。
テレビで、ネットを中心に「自己責任論」が起こっている、と知った。わざわざ政府も止めているのにそんな危ないところへ行ったのだから、自業自得、自己責任だという。
一方で、ジャーナリズムは報道しなければならないという「社会的使命論」もあり、両者の間に大論争が起こっているという。
解放時のコメントで、安田さんが「荷物がすべて奪われたのでそのことが頭にきている」「日本政府には借りを作りたくない」等と述べたらしく、「ご心配おかけしてすみません。ありがとうございました。」といったコメントを無意識のうちに期待していた私たちが裏切られたように感じたことも一因だと思う。
私はどちらかといえば、「自己責任論」には反対の方だ。
善し悪しはわからないけれど、今心身への暴力で衰弱し尋常ではないだろう人に、さらに平和な国の私たちが追い打ちをかけてどうする、と思う。
でも、「自己責任論」を唱える人も、「社会的使命論」を支持する人も、武装勢力に対する思いは同じだろう。
ACIM的観点から、ものを言ったらどうなる!?
ここで、ふっと思う。
私が、「これは実際起ったように見えるけれど、実際には起ってないんです。私たちは幻想の次元でものを見ているだけなんですよ。
だから、私たちは“起っていない”ことと、それに加わった同胞を赦しましょう。私たちは常に神とともにあり平和です。」と言ったら…、と。
私は、著名人でも見識者でもないからだれも相手にしないけれど、これをテレビに出ている立場がある人が言ったら、論争をしていた両方のエネルギーがいっせいにその人に向かい、「何、無責任なこと言ってるんだ。頭おかしいんじゃないか」ということになるだろう。
そして、あやしい宗教にハマった人のレッテルを貼られ、社会的立場を失うだろう、と想像した。
…これが、私が見ている世界だ。
そして、これが私の恐怖だ。
これこそ、私が赦すべきことなんだ。
ここに行きついた。
そして、ACIMについて考えを述べていく時には、世の中が幻想というだけでは足りない、相手がどう受け取るかは別として、この世の言葉で説明したり表現したりする力も必要だと感じた。
『奇跡講座』の考えを、理屈で考えて整合性がある、正しいにちがいない、と思っている一方で、まだまだ感情的には受け入れがたいとも思っている私。
今「踏み絵」を差しだされたら、何くわぬ顔で踏んでしまいそうだ。