2018-10-26
レッスン218―レッスン198の復習
「(レッスン198)私の咎めだけが私を傷つける。」
「咎め」という字、ふだんあまり見ない難しい字だな~と漢字の成り立ちを検索してみたら、「処」と「口」の合体だった。
「処」には、「場所」や「身を置く」「人とつきあう」の他に「処罰する」という意味がある。なので、「咎める」は文字通り「口で罰する」か…。
「傷つくということはありえないことである。しかし、幻想は幻想を作り出す。」(L198-1-1)から始まるレッスン198。
(自分が)咎めること⇔傷つくこと、はワンセットだという。
本来はどちらも在りえないものだ。
だがこの世で、「咎め」を認めるなら、「傷つく」も在りうる。
- 咎める→幽閉、傷つく
- 赦す→自由、幸せ
そのどちらをとるか。
これは、
- 真理の世界に住まうか
- 幻想の世界に住まうか
…の選択でもある。
赦しはすべての幻想への回答
「赦しは幻想であるが、ほかのすべての幻想への回答となる幻想である。」(L198-2-10)
赦しもまた幻想の一部だけど、
赦しは幻想をとりなすはたらきをする。
したがって、赦しによって、この世の存在事由である罰も消える。
そもそも私たちは、罰せられる(自罰する)必要がない。
この世には、神の一なる子がいて、その子を自分が代表して今「自分」を感じている。
いるのは、神の一なる子だけ。
他者のように見えてはいるけれど、それは自分を鏡の中に覗きこんでいるようなもの。
心理的に誰のことも咎めてはいけない。
赦したうえで、この世でなすべきことがあればなせばいい。
たしかにそうだけど…、やじろべえのように揺れる
ACIMワークは、いつも、こうした同じロジックを視点を少しずつ変えながら、くりかえしくりかえし説明して諭してくれている。
この世で肉体と寿命を持って生きている(と思っている)私たちには、そのロジックの全体像がまったく見えないからだ。
この世は超リアルで、私たちは「自分の手」でこの世の勝利を勝ち取りたいともがく。
ここで城を築くことは、つかの間の生で素晴らしい感覚をもたらす。だけどそれは、いずれは手からこぼれおちる砂の城だ。この世と闘えば、幻想の砂の中に埋まってしまう。
「それよりも、問題に対する答えを手にしていることを喜ぶほうが賢明ではないだろうか。」(L198-5-1)
私はこの一文が好きだ。
なんとなく、くすっと笑ってしまう。
たしかに、そうだけど、そうだけど、、揺らぐんだよねー。
だって、この世とそのやり方になじんでいるし、ACIMの道は前が見えない野原を歩いているようにも思えるから。
一個の自分にとっては、ACIMに従うことは、あたかも「実験」のようにも思えるのだ。
「私の咎めだけが、私を傷つける。
私自身による赦しだけが、私を自由にする。」(L198-9-3,4)
「神の個の中にはどんな咎めもないと宣言するこの一つの幻想を受け入れなさい。」(L198-10-1)
毎日、ACIMの価値観と、この世の価値観の両方を、やじろべえのように、行ったり来たりしているよ。
この世の価値観の方に振れた時は、赦しのチャンス到来!なんだろうけど、何度も、何度も、見逃しているよ。