2018-10-23
レッスン217―レッスン197の復習
「(レッスン197)私が得られる、報 酬は、自分自身からの感謝のみである。」
これは、前のレッスン196の主題概念「私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。」と対になっているようにも思える。
この世が幻像であり映画のスクリーンを見ているようなものだとすれば、そこに何を映すかが重要だ。
そもそもこの世は、エゴが私たちの罪悪感と恐怖からのエスケープ場所として提供したもの。
無意識のままならば、そこに映されるのは、罪悪感と恐怖となる。もちろん人生には楽しいことや喜びもある。だけど、根っこのところで無意識に鎮座する罪悪感と恐怖感に苛まれることになる。
それに頓着せず、手放すこと。
この部分をレッスン196は言っていた(よう思う)。
一方で、感謝は、愛と同じように神なるものでリアルだから、その認知力が高まれば高まるほど、神の愛、喜び、豊かさも受け取ることができる。
空に浮かぶ雲が消えれば、その向こうには常に太陽が照っている。
それと同じで、エゴの偽りの想念が取り除かれれば、神の子なる自分が認識される(と言う)。
感謝を引っ込めてしまわない
感謝は、雲を取り除き神とつながる、この世でのもっとも近道だ。
そんな強い力を持っている感謝だけど、感謝しても相手から同じように感謝が返ってこない時、私たちは、不安に思ったり「マナーがなっていない」とすぐに引っ込めてしまいがちだ。
それは、リアルな眼で見たら、神からのせっかくの贈り物を無下に断っているようなもの。実にもったいない」と言っている。
「あなたの贈り物が何の効果もなく失われたように見えたとしても問題ではない。
それらは与えられたところにおいて、受けとられている。」(L197-4-3,4)
「すべての贈り物は唯一あなた自身に与えられるので、神に捧げられ、神はあなたが捧げるすべての贈り物を祝福する。」(L197-5-1)
感謝は神そのものであり、神の子そのものだから、感謝すればするほど延長し増幅し、ただただ感謝がある。
ただいま感謝を練習中
私は、元々わがままな性格で、感謝というよりグチを言ってきた。
そして、遅ればせながら今、感謝を練習している。
まずは「形から入る」というか、なるたけ「ありがとう」を言うようにしよう位からやっている。
前よりは感謝できるようになってきたけれど気づくと、些細なことに不満を感じていたり、感謝してもそれに対してどこかしら見返りを期待しているところもある。
それはやっぱり筋トレみたいに、少しずつやりながら習慣にして、負荷をかけてもできるようにしていくものなのかな、と思う。
感謝のいいところは、下手でもやっていれば本当に感謝の念がだんだん出てくるところ。
そしてそれがこの世のいたるところに入り込んで、自分に良きものが返ってくるのを実感する。
今は、実に恵まれていてありがたいと思える。そうではない場面でも感謝できるかな。
この世の感謝は、赦しとセットなのだ。