2018-10-16
レッスン215―レッスン195の復習
「(レッスン195)愛は私が感謝の内に歩む道である。」
レッスン195には、愛と感謝のことが書いてある(ように思う)。
私は、未だ、「愛」がわかるようなわからないような。
大事、はわかる。
愛おしいも、わかる。
離れたくない、もわかる。
それが愛? 情ではなくて?
とか言いだすとわからなくなる。
この世で愛と言われているものはその多くが、「所有権」や「執着」なのかもしれないと思い始めると、愛という言葉を使うのにも躊躇してしまう。
そういう私にとって、レッスン195は少し難しく感じられる。
私にとっては、感謝の方がわかりやすいから、愛はさておき感謝から学ぼうかと思っている。
他の人が苦しんでいる時に、わが境遇に感謝することは、感謝ではない
「愛は比較しない。そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ真摯なものでありえる。」(L195-4-2,3)
これは、私たちが「自分の方がましだ」と他人の苦難を見て「感謝」しがちなことへの諌めだ。
感謝は他者との比較から生まれるものでは、決してない。
絶対的なものなのだ。
それは、神と自分との関係を表すものだから。
私たちが、他人と比較して一喜一憂してしまうのは、神の愛や豊かさ、よいことには、一定の量があり、それをみんなで奪い合っているという妄想があるからだ。
エゴが主導する幻想の世はそうかもしれないけれど、神はゼロサムゲームではない。
感謝は神との関係において、ただすること
「私たちは一つのころについてのみ、父に感謝する。すなわち、行きとし生けるものから私たちは分離しておらず、だから神とひとつであるということだけに感謝する。」(L195-6-1)
感謝とは、ただただすることだ。
それは、神への信頼を表すことだ。
そして感謝をすればするほど、副次的効果として豊かさももたらされるのだと思う。
それは、神と私たちの間を阻むかのような「雲」を取り払う行為に他ならないから。
神との関係がクリアになり、無限の豊かさ、愛、喜びに近づけるから。
なかなか抽象的で、掴みにくい話だけど。
「感謝とは、愛の一つの側面にほかならない。」(L195-10-3の一部)
「愛は感謝以外の道を歩くことはできず、神への道を歩む私たちも、そのように進んでいく。」(L195-10-6)
この二つのフレーズは心に残ったところ。