2018-10-06
レッスン212―レッスン192の復習
「(レッスン192)私には、神が私に全うさせようとする機能がある。」
ACIMのワークブックの訓練を一言でいうと、この機能になる。
すなわち、赦し。
許しとはちがう、赦し。
ACIMのワークはとてもシンプルで、ただ目前に現れるものを赦すこと。それによって、あるがままの神の子になっていくこと。それだけだ。
このことを、この世のいろんな言葉で表現してわからせようとしている。
では、赦しとは何ぞや。
私たちが見ているこの世界は強固に見えるが、それが実は投影させて見ているバーチャルリアリティである。そのことを認識し、そこへの感情的執着を手放すこと。
すべてが満たさせた愛情と感謝に溢れた状態に戻っていくこと。
本来それはそのまま私たちと在り、私たちが悪い催眠術にかかっているだけなのだから。
これは、「私」が選んで投射している「世界」なので、「世界」を救うのは、私の認識だ。
その認識を変えるためには、赦しという訓練が要る。
赦しの方法について、レッスン192は「この道は単純明快である。」(L192-9-3)として示している。
「突き上げてくる怒りを感じるたびに、自らの頭上に剣を振りかざしていることを理解しなさい。
そして、罪を宣言された者となるか、自由な者となるかをあなたが選択するたびに、剣は振りかざされるか、回避されるかのどちらかである。」(L192-9-4,5)
すべて怒りは、実は自分自身への怒り。それを認められず、封じ込めるがために他の人が怒らせることをしたと見えている。
それこそが悪い催眠術だ。
まちがった認知をとりなすこと、それが赦し。
赦しはむずかしい。
それは、自分に対する怒りと罪悪感があまりに大きくて、直視したくないから。
悪いのは、自分ではない、これだ。気分が悪いのはあの人のせい。
そう思わせてくれるものを常に必要としている。
いつも、いつも、認知は狂う。
だから、何事もない時になるたけ理屈を勉強しておくことが、自分を律することにつながるんだろうな~。
備えあれば憂いなし!?
赦しはチャンス。
本来の自己にまた少し近づけるチャンス。