2018-09-18
レッスン207―レッスン187の復習
「(レッスン187)私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。」
ここでは、この世での知覚と真の知覚の違いが述べられている。
・この世 ⇒ 持っているものを与えるとなくなる
・真理の世界 ⇒ 与えることは増やすこと
この理屈がなりたつのは、この世にある形あるものは、それを作り出す想念を表現しているから。
なので、
・形あるもの → いずれ、変化する、なくならない
・想念 → なくらならない。与えることで強化される
となる。
実は、与えている相手は自分である。
神の子である私たちは個々それぞれが存在しているかのように見え、そのそれぞれの角度からこの世を見ているが、本当はひとつだから。
もし、犠牲という概念があるようなら、誤っている。それは赦すべきこと。
その奥には、神からの分離という誤解と、それがもたらす恐れがある。
私たちは、自らを祝福する。
だから、その目に映る世界は祝福されたものとなる。
ACIMワークを知ることと実行することの間に乖離あり
「自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それを守りなさい。」(L187-4-1)
「喜んで与えなさい。それにより、あなたはただ得るのみである。想念は残り、与えることによって強化され、さらに強力なものになる。」(L187-5-1)
とあり、これらの文言には、なるほど~と思うけれど、いざ実行を迫られると、その信念はふにゃふにゃなものだと気づく。
数年前元だんなさんに大金を貸していた時、なかなか約束通りには返されず(それができない状況にあったらしい)、「ACIMの教えによれば、これは“手放すべきもの”では?」とも考えたけど、そうは簡単には手放すことはできなかった。
その時は、その背後にある想念もまた、彼への執着だった(このレッスンの例としてはふさわしくないとも思うけど、なんとなく思い出した)。
その執着とは、彼に投影した私自身のエゴへの執着だったか。
特別の愛と、特別の憎悪と、おカネそのものへの執着と、赦すべき事柄のオンパレードだった。
今もそんなに変わってないかな?
赦して穏やかになったというより、対象が遠ざかったから反応しなくて済んでいるだけというのが、正しい気がする。
そして、今もいろんな不安や恐怖感がある。
神への恐怖をこの世に見ているんだと思う。
それでも玉ねぎの皮を剥くように、少しは落とせてきているんだろうか。
ワークブックを読んでいると、とても私にはできそうにないことばかり書かれていて、空恐ろしくなる。。。ことがある。