2018-09-06
北海道で大地震、備えていない私
目覚めてスマホ画面を見て、びっくりした。
最大震度6強、とある。
地震?
北海道…? 午前3時8分…。
今度は地震?…、と思ってしまった。
テレビを付けたら、土砂崩れ、液状化、家屋倒壊といった怖ろしい映像が映った。被害はまだ明らかではない。もっと広がるだろう。
このタイミングで…だけど、9月1日は防災の日だからだろうか。マンションの管理組合さんから、各住戸に水と乾パンが配られた。
備蓄していたものの賞味期限が近くなってきたため、各戸に配って新しいものを買うのだとか。
「この乾パン、けっこうおいしいらしいよ」と管理人さん。
東京など人口が多いエリアで大地震が起こったら、人が多すぎて、救助どころではないだろう。中枢の交通網やインフラにダメージが起こったら、人も流通も大混乱。もうそれだけでパニック、カオスではないだろうか。
まず電気が止まった段階で、エレベーターは使えない。水もダメとなると…。
東日本大震災後、一時人気が落ちたタワーマンションだが、再びここ数年都心湾岸で人気↗、都心の地価上昇に一役買っていた。大丈夫かな?
…というより、私だ。
災害への備え…まったくしてない。
備蓄。料理に使うサバ缶とシーチキンくらい(備蓄とは言わないか)。
いくらずぼらでも…、
これだけあちこちで災害が起きているのだから、少しずつでも準備しよう。
レッスン204-レッスン184の復習
「(レッスン184)神の名は、私が受け継いだ賜物である。」
このレッスンでは、この世における「名づけ」の意味が示されていた。
名つけとは、
1.自分と切り離して認識するための手段であり(分離化)、
2.名づけることによって、自らが統治でき(自らを神とする)、
3.幻想に現実味を付与する。
すなわち、この分離した幻想社会を形づくるための有力な手段だという。
そして、私たちは幼い頃から長い時間をかけて、名づけられたものを習得してきた。それこそが、ここでの学びでありコミュニケーションの手段だ。
でも、ここで大事なのは、それをリアルとはしないこと。
「自分が世界を作ったと考えてはならない。幻想ならば確かに作り出した!しかし地においても天においても真実なるものは、あなたによる命名を超えたものである。」(L184-8-1)
「闇の世界を描写する卑小な名称や象徴はいくらでも使ってかまわない。しかしそれらをあなたの実相として受け入れてはならない。」(L184-11-1)
無数の名づけによって成立しているこの世で、たくさんの名を用いながらも、それを超えて真実を見る。
意志疎通 と真の 親交は別のものだ。
周りの人のなかに神の子を見る。
神に名はない。
ただすべてが、つまるところ神に集約されていき、ただそれだけになる、という意味で、それは一なるものの象徴であり、一なる名である。
それはまた、私たちにそもそも与えられている、備わった名だ。
肉体でない、だけど健康づくりはしたい
復習Ⅵとして、それぞれのレッスンの復習とともに軸となる概念を学んでいる。
「私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私だから。」
私は肉体ではない。
私は引っ越して落ち着いたらいくつかの身体の不具合に対処したり(病院苦手で先延ばししてきた)、筋トレ・ストレッチなどの体づくりをしたいと思っていた。
そして、今もやはりそう思っている。
肉体ではないと思うことと、体への配慮は矛盾しないよね?
それも、また体をリアルにしてしまうことなんだろうか。