若さへの執着というより、自分への執着を捨てなさい

2018-09-02

「自分は捨てなさい」とメッセージ?

昨日は、久しぶりにパソコンの講習だった(Dreamweaver)。9時~16時半までという長丁場だったけど、刺激を受け楽しかった。今度こそ使いこなせるまでになりたい、と思った(去年もそう思った)。

帰り道、急な土砂降りとカミナリに見舞われた。今年は本当に天気が極端だ。幸い日傘を持っていたので、日傘をさしバッグを抱えて家路を急いだ。

今朝は雨が上がって曇り。少し涼しい。秋だ。

今朝のワーク中、「私は、若さや美が幻であるにも関わらず、そこに執着しそれをリアルにしているんだろうか(参考日記:『奇跡講座』学習者らしからぬ!? 買物)」と自問した。

そうしたら答えのようなものを感じた。メモしておこうと思う。

     *    *    *    *    *    *    *

「すべてを捨てても、あなたは美しい。

“問題”があるとすれば、あなたの若さや美への執着というより、

自分自身への執着だ。

「自分」は捨てなさい。

小さな「自分」があるから、人の反応や言動が気になる。

あなたは「神」より「自分」に執着している。

そして個として、神に近づきたいと思っている。

だが「神」と「個としての自分」は両立しない。

個として立つ自分はいない。

自分じゃない、神なんだ。

自分という個から、自由になれ。」

そして最後に

God is.

という余韻を感じた。

自分を捨てるとはどういうことだろうか。

果たして、そういう感じにまでなれるものだろうか。

「自分を捨てる」これがこれからの私の大きなテーマなのかな?

「この世で神を見る」ゲームに意識的に参加する

またこうも感じた。これは感じたというより、私が思ったこと。

現代はゲームが大人気で、多くの人がゲンジツから離れて様々なゲームを楽しんでいる。社会全体がゲーム化しているとも言える。

「2022年 アジア競技大会」では、コンピュータゲームの腕を競い合うeスポーツが正式なメダル種目になるとかならないとか?

でも考えてみたら、この世界自体すでにゲームなんだ。リアルじゃない。

だとすれば、趣味でサバイバルゲームに参加する人みたいに、もっと意識的にこの世を徹底的に巨大ゲームだと思ってやってみたらどうだろう?

自分を取り巻く社会や環境で、

神以外のものをやりすごし、

神を見つけ、神を感じ、愛し、感謝する。

そういうゲームだって。

この世は、まがいもんに足を救われず、神を見つけるゲームだ!

そして、私は分厚い玉ねぎみたいな衣装を着て参加しているけど、まがいもんに足を救われず、そこで神だけを見ることができたら、その皮を一枚剥くことができる。

そうして、少しずつ軽く自由になりながら、個の身体を離れるまで身軽になる…

また残暑がぶり返すかな?

短い秋を楽しみたい。