ACIMレッスン193-すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。
2018-07-30
台風12号と罪悪感
日本列島を逆走する“異例のコース”を辿った台風は、明日まで九州に居座り、九州南部や四国に激しい雨を降らすらしい。
西日本豪雨で被災した地域では、再び冠水被害に合われた方々も。
家が水浸しになってしまい一から生活を作っていかなければいけない徒労感とやるせなさは、いかばかりかと思う。
とてもとても「赦し」などとは言っておられないだろう。
こういった災害のニュースを見ると、心が揺れる。
なんて、ひどい…と思う自分と、
これもまた赦すべきこと…と思う自分がいるから。
そして、後者の自分に、罪悪感を感じるから。
ACIMレッスン193-すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。
ワークのダイアリー、いつが最後だったかと見たら、6月6日のレッスン192だった。
レッスン193からだ。
これをいつやっていたのか、と振り返ったら、5月末から6月初めだった。
粗大ごみを出したり、本を大量処分したり、リフォームの手配をしていた頃だ。
レッスン193には、「各レッスンには中心をなす想念があり、それはどのレッスンにおいても同じである。(中略)それは次の通りである。」と書かれ、
「赦しなさい。そうすれば、あなたはこれを違った見方で見るだろう。」(L193-3-7)
とある。
「この言葉をもって誘惑が終わり、罪悪感は放棄されて崇められることがなくなる。これが罪の夢を終わらせ、心から恐れを取り除く言葉である。」(L193-5-2)
災害や犯罪などのニュースに、恐怖、罪悪感、怒りを感じるが、そうしたこともやがてすべて赦せるようになるのだろうか。
怒りや恐怖は「手放さねば」とシンプルに思えるが、罪悪感は、それを手放すそのことに罪悪感を覚えてしまう。
自分が間違った見方をしているかどうか、見分けるには、
「その知覚において、苦痛が実在するもののように見えているかどうかを問いなさい。もしそう見えるのであれば、そのレッスンは学ばれていないと確信してよい。
そして、その心の中に、赦そうとしない思いが隠れて存在しており、心は自らの指令下にある目を通して苦痛を見ているのである。」(L193-7-2,3,4)
とある。
私には、まだいろんな苦痛が実在するように見えている。
「すべては神があなたに学ばせたいと望むレッスンである。神は赦そうとしない想念を一つでも訂正されないままに放置することはない。」(L193-9-1)
赦すべきことだらけだ…。
私は赦す。だから、これは消えていく。
レッスンの終わりに、この世のシンプルな見方が書かれている。
「私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)
この見方がすべてなんだよな。
でも、すぐに忘れてしまう。
ふと、気づいた。
私は、災害のニュースを赦そうとする自分に罪悪感を感じると書いた。けど、その背後には、もっと大きな別の感情がある。
そうしたニュースを赦そうとする姿勢を、周りの人々や世の中は非難するだろう、その非難をこそ恐れているのだ。
これに対しても、答えは、やはり、
「私は赦す。だから、これは消えていく。」
この魔法のことばなのだ。