気づけば、『奇跡講座』から離れて1ヶ月

2018-07-12

「それこそが赦すべきこと」

一昨日、オウム死刑囚の死刑執行に「死刑って辛い」と書いたけれど、その夜ふとんに入ってから暑さで寝苦しく何度も寝返りを打ちながら(エアコンつけてない(^o^))、そのたびに「それこそが、私が赦すべきことだ」と感じていた。

オウムも、死も、死刑も、すべて実在のものとして、自分の恐怖心や罪悪感、同情心などが動いていたのだから。それは、私が学んできたことと違う。

『奇跡講座』を離れて1ヶ月、この世の場所づくりに夢中

引っ越し前日から、この1ヶ月、『奇跡講座』(ACIM)から離れていた。最後にワークをやったのは、6月13日のレッスン195だ。

ばたばたしていて心身ともにゆとりがなかったのと、環境が変わり落ち着けなかったので、ワークをする気にならなかった。そして、だんだん「敷居」が高くなってしまっていた。

しかし、ACIMから離れていることが不都合でも寂しくもなかったことに、自分自身ちょっとびっくりでもある。

それどころか感じていたのは、「解放感」だった。ワークをしなくちゃ、というのが、たいして時間を取るワークでなくても、けっこうプレッシャーになっていたのか。かなり緩慢にやっていたのだけど。

そもそも、ACIMは自分の生活になくても困らないくらいの、そんな存在だったのか。

なすがままに任せてみたら…というより

その間、意識が向いていたのは、片づけと家づくりだ。家づくりというと大げさだけど、物干しざおや食器の水切りかご、傘立てといった新居に足りないものを買い揃えたり、Amazonから来たテレビを設置したり、クローゼット内の収納を工夫したりと、家を自分なりに整えること。

新しい場で、なんとか、「これでまぁ、落ち着ける」という状態にしたいとあれこれ試行錯誤し、気づけばACIMから離れて一ヶ月も経っている。

やっと、こうしてパソコンに向かうのにも慣れてきた。

そろそろ、高くなった敷居を超えるため『奇跡講座』の再読を始めようかな、と。

余裕はないはずなのに、余裕である。

あとしばらく、なすがままに任せていたら、どこに向かうのかを見てみたいような気もしている。

というより、動こうにもただ目先のことだけしかできないだけなんだけど。