2018-07-10
オウム死刑囚、死刑執行のニュースに思う
先週、7月6日土曜日の午前、オウム真理教の教祖麻原彰晃ら7名の死刑囚の死刑が執行されたとのニュースが流れた。
オウム…。当時のオウム集団の異様さを思い出した。地下鉄サリン事件、松本サリン事件、公証人役場事務長殺害事件、坂本弁護士一家殺害事件…。
これほどの凶悪な事件が、教祖麻原彰晃の教えに導かれて一見どこにでもいる普通の人のように見える信者らによって実行された。
オウムがヨガ教室から組織を拡大させていった頃は、私は20代前半。その頃からいわゆる「スピリチュアル」というものが流行り出していた。
私もそういうことに詳しかった友だちに、シャーリーマックレーン著、『アウト・オン・ア・リム』という本を紹介され、それ以降誘われるままにいろんなセミナーみたいなところにも参加したりしていた。
まかり間違えばオウムのヨガ教室にも行っていたかも?
しかしー。
高学歴の信者が多かったことから、マスコミの人は、口々になぜ彼らが麻原彰晃のような人物に洗脳されのか、と不思議がったが、私も同じように思った。
どうして、あんな気色悪いおっさんに身も心も捧げたのか。洗脳というものはそれほど影響力を持ちえたものなのか。
なぜみんな理想や志はあったはずなのに、道を誤ってしまったんだろう。
私は死刑には反対
死刑とは、もっとも重い刑。文字どおりその人を死なせる(殺す)刑だ。
オウムの教祖麻原彰晃こと、松本智津夫その人以上に、この刑にふさわしい人はいないだろう。
それでも、私は、死刑執行には反対だ。
なぜなら…
ひとつは、テレビに出ていた専門家?も言っていたけど、オウム事件とは何だったのか、事件の核心部分を知っている人たちがいなくなってしまうから。
側近中の側近と言われ、地下鉄サリン事件当時25歳だった井上嘉浩は48歳になっていた。その心のうちでは、今は何を思っていただろう。
日本人はまじめで忠誠心が強いというが、それが間違ったボスの顔色を伺うような事件が最近も頻繁に起きている。オウム事件を特殊なこととして片づけられないような気がする。
二つ目は、死刑とは結局は人を殺すことだから、その執行には、死刑囚とその家族や執行人を初めとする周囲に、新たな恐怖と悲しみ、罪悪感が生まれるから。
以前、ニュースの中で死刑執行の仕方みたいな特集をやっていて、それをつい見てしまった。その残酷さに衝撃を受けた。
死刑囚は、刑の執行を当日の朝言い渡されるという。そんな環境下で人間は正常な精神を保って生きられるのだろうか。生死のコントロール権を握られ、究極の人権侵害下に置かれているようにも、思える。
執行人は、3名のうちの誰のボタンが踏み板を外すしたのかわからないようになっているとか、執行の補佐には特別な休暇が与えられるとか。
見ているうちに、自分が死刑囚の立場になったり、執行人になったりして、とても怖ろしく感じた。
罪を犯した人は、愛情なのか自己肯定感なのか何かが欠けていたから、誤って罪を犯すことになったのだと思う(ここでは『奇跡講座』の考え方からすっかり離れてしまっている)。本当はその欠落感を満たさなくてはならないのに、命までも奪ってしまうとはむごすぎる、と思ってしまう。
もちろん、被害者感情への配慮も必要なのだろうけど、それでも、誰かが殺されたことがよかった、ハッピーとはならないのではないか。
私たちはみな死刑囚?死とどう向き合うのか
私がこんなに死刑に反応するのは、私が死を怖がっているからなのだろう。死をリアルにしている。
これは、言い過ぎかもしれないけれど、広い意味で言えば、私たちはみんな「死刑」を背負って生まれてきて、「死刑」を背負って生きている(もちろん、これは、この世的な見方で、本当は、死はない)。
だた、それがいつかであって、まさか明日言い渡されることはない、と思っているから、正気を保っているだけなのだ。
私が『奇跡講座』に関心を持って学びたいと思った一番大きな理由は、その情報が正しいと感じたからだ。だけど、二番目か三番目には、死の恐怖をやわらげたいと思っているから、というのもあるのかもしれない。
私たちは個々の存在を体験しているが、もしかしたら生が一時の泡のような幻で、死が恒常的な状態なのかもしれない。
それは、本来は怖れるに足らないことだと思う。その過程で苦しむ必要もない。
死をどう見るかは、その人の人生観そのものだ。
『神の使者』では、みんな自分の死ぬ時も(意識下で)決めてきているというけど、オウム死刑囚もそうだったのかな。
私は、さっきまで生きていた7人が法の元に殺されたというのは、やっぱり辛い。執行のその瞬間まで、すごくすごく哀しく、すごくすごく怖かったんじゃないかと思うから。