2018-05-14
「母の日」に帰省した
北陸新幹線に乗って、きのう、実家に帰省した。マンション共有者である母の書類を市役所で取ったり、必要な書類にサインをしてもらったりといった手続きのためだ。
手土産はカーネーションの替わりの蘭。
母曰く、葉っぱが左右対称なのが趣に欠ける、と。
実家の居間では、亡き父が微笑んでいた。
親というのは、つくづくありがたいものだ。
遅ればせながら、そう思える人生になって、よかった…。
親を憎んだまんまでは辛いから。
負のリアリティをそのまんま引きずってその見方で世の中を見続けても、いいことはない。
ただ自分のなかの自己像を鏡に映しているのだとは、なかなか気づかない。
実際このゲンジツ下では親の影響力と存在感は絶大で、今回の帰省でも朝から夜までずーっと話かけてくる母に、ACIMの教えはぶっとんでしまう。
とても、これが幻想だとは思えない。
深夜になってACIMをようやく思い出す。
家族と暮らしながら、ACIMのワークを続けるのは、本当にむずかしそうだ。私などはひとり暮らしだからやってたんだと思う。
レッスン190-私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。
レッスン190は、好きなワークだ。
わかりやすいし、私には沁みる。
私はずっと無意識のうちに「(私なんぞは)幸せになってはいけない」と思っていたようだ。苦痛こそが自分にふさわしいものと思い込み、そのうえで、来たるべき苦痛にひどく怯えていた。
それを、レッスン190は「苦痛とは、間違った見方である。」(W190-1-1)と、一蹴してくれている。
その言葉にほどけていく私がいる。私は物心ついたころから、苦痛に対して防衛して身を固くしてきたのだった。
「苦痛とは、神の子が自分が何であるかについて誤解していることを証言するものにほかならない。」(W190-2-3)
苦痛が実在するという考えには、「このような愚かしさに平安あれ!」(W190-4-1)
そうなのか。
そうなんだ。
そうなんだ!
よかった…
苦痛は間違った見方だと、このワークは言葉を変えて、何度も繰り返してくれる。
もし苦痛を感じているとしたら、それを引き起こしているのは、私の考えだけだ。
「この世界には、あなたを病気にしたり、悲しませたり、か弱く、脆いものにするだけの力をもつものは存在しない。それどころか、自分の本性をただ認識するだけで自分が見ている一切を支配できる力をもっているのは、あなた自身である。」(W190-5-5,6)
これは私には救いの言葉だ。
私はこれを信じる。
そして、喜んで、苦痛のかわりに、神の喜びを選択する。
私が今、見ているこのゲンジツは結果の世界なんだ。
そこには、幻想を別の幻想に変える以外の力はない。
「神あり」とこの世で体現できる人になりたい。
最近感じるのは、恐怖心より罪悪感のほうが「やっかい」、ということだ。
恐怖心はわかりやすく手放そうと意識化しやすいけれど、罪悪感は気づきにくいし、それを手放すことにまた罪悪感を感じてしまうから。
人によってちがうのかな。
実家では、考えがまとまらずブログを書くのがむずかしい。
母のパソコンに、慣れないせいもあるかな。
母は会うたびに腰がまがっている。切ない。愛おしい。一方で、心のなかで「和解」し感謝できていること、いまここに居てくれること、それがなによりありがたい。
これはACIMの考えに依った感情かどうかわからない。