2018-05-11
新しい町が気に入っている
おかげさまで、ようやく意識が「マンション売却」から「引っ越し」に移ってきて、引っ越しが実感できるようになってきた。
住まいを駅で選んだわけではないけれど、内見やらなんやらで行くにつれ、町に親しみが増してきている。商店街には八百屋さんや靴屋さんなど昭和の面影が残る店があって、ほっこりする。
今は「この町が好きだ」と思う。
この年になって、また心機一転の気分。あるいは、長い滞在型の旅をするかのようだ。
この世が幻想であっても、環境の影響って大きいと思う。
この世がすべて結果なら、私という原因がどこか変化したから、私が見る環境が変わったということだろうか。
体は、ぎっくり腰はよくなったけど、昨日からまだ膀胱炎っぽい。
こちらの幻想はこじらせる前にさっさと手放したいが。
レッスン189-私は今、自分の中に神の愛を感じる。
レッスン189は、「あなたの中には、世界が知覚できない光がある。この光を、あなたはこの世界の目で見ることはない。あなたは世界によって目が見えなくなっているからである。」(L189-1-1)から始まる。
この世界が知覚できない、内なる光とは、内なる神の愛の反映である。
この神の愛に意識を集中してこれを認めることが、この今回のワークのお題だ。
私たちが内なる神の愛を認めて感じるなら、その反映としての世界というスクリーンには、無垢性と祝福を見ることになる。
今、私の目に映る世界には恐れと怒りが渦巻いている。
これは、私の見方がエゴを通したもので間違っていると示す証拠だということだ。
見方の二者択一
見方は二つに一つ。神の愛を認めるか、否か。神の愛か、罪&恐怖か。どちかかが幻想でどちらかが実在する。
そのどちらもが在るということはありえない。
私はどちらを選ぶのか。
それは「『人は自らの内に感じているものを見ることになる』という知覚の法則(L189-5-2)」に従っている。
だから、
「今日、私たちは幻想を通り越して、幻想を通り越し、自らの内にある真実なるものに到達しようと努める。」(L189-6-1)
そして、
愛と愛からのギフトである光を感じる視覚を感じることを試みる。
そのためには、既存のすべての概念を取り去って、心を空にする。
ワークで取り去るべき概念の中には、「この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手をまったく空にして、あなたの神のもとに来なさい。」(L189-7-5)とACIMでさえ忘れ、まっさらな心でいることが強調されている。
そして、ただ神に来てもらうことだけを願う。
「神に至る道はただ神を神のままに在らせることである。」(L189-8-7)
「問題」「困りごと」はエゴのエネルギー源だから、今は忘れる
おそらくエゴが幻想であるエゴを保つには、エネルギーを与え続けることが必要だ。それが、私たちがこの世で目にする「問題」だ。
問題はこのレベルでは確かに解決すべきことだけど、この世界は結果にすぎないとしたら、その原因のほうを解決することが合理的だ。
その原因は、私(たち)の心の中の神の不在だ。神と私たちは切っても切り離せない。ただ神を認識すること。
そのために心の中のあれやこれや、とくに自分がもっとも問題だと感じていることを脇に置くこと。
神にお願いごとをしたり問題解決を願うのは、神を自分(エゴ)の望みで変形させようという試みだ。
そうではなく、それらを一時心から出して、ただ心を空にすること。
それが神を感じられるスペースを作ることであり、神に近づくことだ。
呼吸をするくらいに無意識にできたら…
ACIMブログを書いている時は、もちろん覚えているけれど、こういうことは渦中に入るとすぐわからなくなってしまう。
だから、くりかえしが必要なんだな、と思う。
前よりも、神さまが怖くなくなった。神の愛を素直に感じられるようになったと思う。
歯磨きくらい、呼吸をすることくらい、神の愛を感じることが習慣化されたら、この世界もまた違って見えるだろうなと思う。