2018-04-30
後ろめたさが緩むGW
GW真っただ中。
私は昨日もおとといも、ただぼーっと過ごした。なんだかとても眠くて、眠くて。でろりんとしている。考えもまとまらない。
金曜日の売却の契約で、昨年末から始まっていたマンション売却・住み替え・引っ越しプロジェクトがひとくぎりで、知らず知らずの間に臨戦態勢にあった身体から力が抜けたようだった。
自分がそんな“臨戦”だったことに、軽くショックを受けた。私は、だれから身を守りだれと戦っているんだろう。
GWは好きだ。
GWこそは籠りたい。世間が休みということで、罪悪感なく自分のやりたいことに向かえるから。
いつも世の中のみんなが頑張っていて自分が頑張っていないことに、どことなく「後ろめたさ」を感じていて、常に煽られ感がある。GWはそれが緩む。
新しい住処の後は、新しいはたらき方、収入源をかたちにしなくては。
レッスン187-私は世間を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。
レッスン187は、ちょうど私にとっての女神=買主さんが現れた時のワークだった。
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自分が持っているものでなければ、与えることはできない。
この世の見方では、与えてしまったら与えた方は失うが、ACIMはそうではない、という。ものはそれを作り出す想念を表現したもので、想念は与えることによって、強化され増大する。
強化され増大された想念は、さらに与えた時より好ましい形で返ってくる。
だから、「自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それらを守りなさい。そうすれば、あなたは自分がそれらを決して失わないと確信する。」(L187-4-1)
「失うように見えるものは、いずれは必ず自分に戻ってくるものに比べて、自分にとってずっと価値の低いものばかりである。」(L187-5-8)
与えた者は、犠牲を払っているかのようだが、「犠牲」という概念はまさに幻想の産物であり、「狂った概念」だという。
苦痛や損失、病気や悲嘆、貧困、飢えや死などで現れる一切の犠牲もありえない。
「自分が犠牲を払うことが可能だなどと決して信じてはならない。」(L187-8-1)
「もし、そうした想念が生じたなら、その想念の存在自体が、誤りが生じていて訂正の必要があることを証明している。」(L187-8-3)
犠牲ではなく、あるのは祝福だ。
犠牲は神への恐れと罪悪感から生じているが、神との分離が幻想なのだから、犠牲など存在しえない。
ただ、祝福がある。
「今、私たちは祝福されており、だから今、私たちは、世界を祝福する。」(L187-11-1)
神への恐れと罪悪感は、とてつもなく大きな幻想だ。大きすぎて直視できず認めることも拒否している。
私たちは、たえずスケープゴートとして非難し祭り上げる人を求めている。悪いのは自分ではなく、「あの人」だと。最近はマスコミなんかでも、その傾向がさらに強く出ている気がする。
自分を責めたくなる分だけ、目の前の人に寛容になれ
私はこのワークをしている時、生前の父に対する申し訳なさが出てきた。
それは「こうすればよかったのに」という後悔になって、さらに自己否定へとつながっていった。
でも、それから、「申し訳なさは幻影。申し訳ないと思ったときは、それを手放して感謝を倍にしなさい。」と言われた気がした。
ワークをしていて、最近のぎっくり腰や膀胱炎も、自分の中の罪悪感に気づく機会なのだと感じた。
それから、こうも感じた。
人間はおしなべて、苦労に耐えられないんじゃなくて、幸せに耐えられないんだ。
勘ちがいの罪悪感に苛まれ続けるから。
自分を責めたくなる分だけ、
目の前の人に寛容になれ。
見ているのは自分自身だ。