2018-02-16
平昌オリンピック真っただ中
私は小学校の頃から運動神経がにぶくて跳び箱3段跳ぶのにも難儀していた。そのためか、「より早く」とか「より高く」とか、あるいは1対1の「戦いに勝つ」ということに執着心がもてない。
格闘技にいたってはおしなべて「暴力」に見えてしまうし、ACIMを勉強し出してからは「この世は幻想だから」の言い訳のもと、「努力する」「頑張る」を投げ出してしまい、生来のぐうたら度がどんどん高まっている。
そんな私からしたら、オリンピック選手の極限の頑張りは目を見張るばかり。
空中でくるくる回るスノーボードなんて、いったいどうなっているんだ。同じ肉体構造をもつ人間とは思えない。
冬季スポーツの中でも好きなのは、フィギュアスケートだ(当然、見る方)。
冬は浅田真央ちゃんの、氷上の優美な姿を見るのが楽しみだった。少女らしい可憐さ、雛人形のような上品な顔立ち、それと対照的とも思える勝気さ、強さ。
成長していくとともに、真央ちゃんの表情は無邪気さ、楽しさから苦悩や厳しさに変わっていき、大人になることの定めのようなものも感じた。4年前のソチ五輪のショートの“失敗”からの大逆転ドラマは、一生心に残るシーンだと思う。
今日は男子フィギュアのSPがあった。羽生結弦選手が大けがから見事復活して現在1位。宇野昌磨選手が3位につけている。明日のフリーも優美でダイナミックな姿が楽しみだ。
レッスン175-レッスン159、160の復習
レッスン175は、レッスン159とレッスン160の復習。
L159)私は自分が受け取った奇跡を与える。
L160)私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。
ここで意識が向かったのは、「与えることは、自分がすでに受け取っていることを確認する方法である(L159-1-7)」ということ。
癒しを与えるとき、自分が癒されることを知り、
赦すとき、自分が赦されていると知る。
同胞を神の子として見ることができれば、自分を神の子だと理解できる。
恐れや罪悪感は必要ない。正しい心眼ですべてを見ることができれば、この世のすべてが奇跡となる。
それは隠されているものではなく、すでに私たちに与えられているギフトなのだから、開いてその奇跡を受け取るだけでいい。
「求めさえすれば、すべてを受け取ることができる。ここでは、扉に鍵がかけられるようなことはなく、誰ひとりとして、どんなに些細な願い事についても、どんなに緊急な必要についても拒まれることはない。
キリストのこの黄金の宝庫の中ですでに癒されていない病気はなく、満たされていない欠乏や必要もない。」(L159-6-3,4,5)
なんて力強い言葉だろうか。
「あなたがあたえることができるように蓄えられている奇跡を見なさい。それは神があなたに与えると約束した贈り物である。その贈り物に、あなたはふさわしくないだろうか。
神の子を裁いてはならない。それよりも、神が定めた道を進みなさい。」(L159-10-1,2,3)
「自信のないふりをするのは止めよ」「自分自身であれ」
この復習をして私が感じたのは、「ヘタに自信のないふりをするのは止めよ」ということ。
私は自信がない。
何に自信がないのかー。改めて、考えてみた。
内から出てきた答えは、
「自分自身であることに」だった。
生まれて初めて出会った人間である、母が怖く、周りも怖く、
私はずっと「隙間家具のように生きること」をモットーとしてきた(ような気がする)。
隙間家具=そこそこ役に立って邪魔にならない。目ざわりにされない。
それは学校や会社になじむにはなかなかよい方法で、逆に信頼を得ることも多かった。
でも、私自身は生来「隙間家具」ではないのだ。
私が「自信がないふり」をしているとしたら、何かに攻撃されないように生きるためだ。
でも、その「何か」とは何だろうか。
自分の心の中に在る「恐れ」以外のなんだろうか。
「自分自身であることに対して、自信がないふりをするな」
すなわち、「胸を張って、自分自身であれ」
これがこの復習ワークから感じたメッセージだ。
自分自身であるということは、自分が使命だと思うことに素直になること。
ACIMに対しても素直になろう。ACIMの中には自分の使命があるように感じている。