2018-02-07
気が休まる水曜日
なんだか解放的な気分で、気が休まっている。
なぜかというと、水曜日―不動産屋さんの定休日、だから。
今日は契約した不動産屋さんからの電話も、未契約で「ぜひうちとも契約を」という不動産屋さんからの電話も訪問もないはず。
おととい、一括査定に参加してもらったけれど早々に断っていた不動産屋さんから電話がかかってきた。
「ネットで見ましたよ。なんだ、専任契約じゃないんですね。一般だったらうちとも契約してくださいよ」
ドキッ
そうだよね、そう思うよね。私も専任にするつもりだったんだ。結果的に一般になったけど。
あ、でもね、今のところ契約する会社をこれ以上増やすつもりはないんだ。
過剰反応する必要はないけど、契約した不動産屋さんから、「契約を求める新規の不動産屋さんがいつ直接訪ねてくるかわかりませんよ」と聞いて、どこかしら身構えていた。
「私が言うのもなんですが、不動産屋はありとあらゆる手段を使って契約を取ろうとしますから、気をつけて」と念押ししていったし。
私は自分から出ていく方はそうでもないのだけど、自分の空間に来られるのはキンチョーが高まる。いつもはしないドアチェーンもおとといから、しっかとかけた(ACIMでいう「防衛」である)。
でも、今日は大丈夫。不動産屋さんはお休みだ。大いに羽根を伸ばして休んでほしい。
こんなクローズドな性質で、興味を持った買い手候補の方に家の中をお見せする「内覧」を何回もこなせるのか、不安だ。おそらく一回ごとにキンチョーするんだろう。あまり今から身構えないでおこう。
内覧希望者がまったくなかったら…。
そっちの方がかなり心配だ。
レッスン173-レッスン155、156の復習
レッスン173は、レッスン155とレッスン156の復習。
L155)私は一歩退いて、神に導いてもらう。
L156)私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。
このレッスン173では、レッスン155と156の文言で、神さまと聖霊とをコンパスとするこの世での生き方をもう一度確認する。
この両方のレッスンとも、本文の一番最後の宣言がエッセンスだと思う。
L155「私は一歩退いて、神に導いてもらう。私は神に至る道を歩きたいのだから。」
L156「私は完璧な聖性の中で、神とともに歩む。私は世界を照らし、私の心を照らし、私とひとつのものとして神が創造した心のすべてを照らす。」
「神は愛であり、だから私も愛である。」
このワークでは、復習Ⅴを総括するフレーズ「神は愛であり、だから私も愛である。」をより意識した。
このフレーズは、短いながら、私たちの意識を動かす強力な2つのフックがあると思った。
1つは、文字どおり「神は愛である」というところ。
これは、私たちが神に対して無意識に投影している「罰する神」「恐れるべき神」というイメージを根幹から上書きする役割を果たす。
もう1つは、「だから、私も愛である」というところ。
「神は愛」「だから私も愛」という2つの文は、今の私には強引とも感じる。この文で、神と私はつながっているんだ、と潜在意識にしみ込ませる。
復習Ⅴを通して、この文言を唱えることで、古い心のOSの更新を図っているのだ。
…私ははたして愛になりうるんだろうか。
今世では無理かな、と、はなから投げ気味だ。
ワークをしていて感じたのは、私はやっぱり感謝が足りないということ。言葉で「ありがとう」を言うのはけっこう慣れてきたけれど、心がね。。。
「本当にありがとう」と心から感じている時は、逆に言葉にできなかったりする。