オリンピックと奇跡講座と私

2018-02-26

平昌オリンピック閉幕、日本人選手頑張った

きのう平昌冬季オリンピックが終わった。

日本は金4、銀5、銅4、冬季最多の合計13個のメダルを獲得した。

私はすごく関心があったわけではなかったけど、やっぱり日本人選手の活躍をテレビで見ると、単純にうれしくなった。

ライブで羽生結弦選手や宇野昌磨選手のフリーの見事な演技を見てドキドキし、内気そうに見えた宮原知子選手がフリー演技後ガッツポーズした時にはパチパチと拍手した。

女子パシュートは日本人らしい集団の力を見せ、見事金メダル獲得。そのメンバーでもあった高木菜那さんは「高木美帆さんのお姉さん」と呼ばれ続け妹にコンプレックスを持っていたというが、新競技マススタートで優勝、初代女王となった。どんだけ努力してきたんだか。

女子カーリングチームも見事銅メダル。清楚な美人が多くて競技中の真剣な表情がひときわ美しく見えた。瞬間最高視聴率は42%だとか。

みんな、みんな、一言でいうと「すごーい!」だ。メダルに届いた人も届かなかった人も。

このオリンピックに照準を合わせるなら、4年に一度。3年と11ヶ月と何日かはこのために努力していたんだろうか。

私のほうは、寝っ転がってテレビを見て「感動」をもらえるから、気楽なものだだ。だが、選手はどれだけ他のことを捨ててこれだけに絞って懸けたのか。

すごい熱とパワーだ。想像ができない。とにかくすごい。

一方で冷めている自分もいる、歳のせいか

敬意を感じる一方で、冷めている自分もいる。

それは、一つには私がもう結構な年だからなのかもしれない。

ふりかえってみると、人生の前半というか40歳位までは、私も「世の中でどう自分の力をどう発揮するか」「この世界でどう自己実現するか」に関心があった。

それが40歳を超えた頃から価値観が変わった。どういったらいいだろう、人生の時間には限りがあると実感できるようになり、これまで魅力的に映っていたものがそうとは思えなくなった。

それがユングのいう「中年の危機」というものだと、カルチャー講座を受けて知った。

「世の中の自分」ではなく、もっと「本来の自分」を生きたくなったのだ。

人生の前半は、どんどんチャレンジしたらいいと思う。それが楽しいし、ワクワクするし、力もどんどん湧いてくるし、きれいだし。キラキラしているし。

ああ、私は遠いところに来ちゃってるんだな、とキラキラしたチャレンジ精神を客観的に眺めている自分に気づく。

『奇跡講座(ACIM)』と勝負の世界と私

私がどこか冷めているところがある、もう一つは、やはり『奇跡講座(ACIM)』の影響もあるかもしれない。

もしかしたら私の解釈自体まちがっているかもしれないけれど、ACIMは非二元論に基づいていると学んでから、「勝負」に感情をなるたけ近づけないようになった。

「勝負」は「勝」と「負」。二元論の代表的なものともいえる。近年ますます「強」と「弱」、「勝」と負」がはっきりしてきて、世の中で「強」と「勝」をGETするために幼少期から知らずのうちにレースに参加しているようにも見える。

「勝」を求めた瞬間、「負」も引き受けることになる。それはそれでエキサイティングでワクワクするゲームではあるけど、、、これからの私が求めるのとはちがうかな?

ACIMのなかで「すべてを含むものに対極はない」といっていたのは、どのページだっただろう。

ゲームは好きだし、勝つのも気持ちいい。過去には負けず嫌いな自分もいた。今も「うまくやりたい」自分がいる。

でも、落ち着いて穏やかでいるときの私が先を眺めた時、目指したいのは、「勝負」を超えた世界だ。

「勝」も「負」も手放して、あたりまえのように与えられ満たされている世界。頑張らなくても愛され癒され感謝される世界。恐怖と罪悪感を手放した世界。

常識的な方の私は、「ひとり身のおばさんが何言っている、その考えじゃ野垂れ死ぬよ」と言う。

たしかに。

でも、それを確かめてみるのもいいかな、とヤクザな方の本来の私。

問題は、ゲンジツで頑張らないとしても、心の姿勢をACIMの教えどおりに正し「赦すこと」を忘れてはならないことだ。

ついつい、それを忘れ、単なるぐーたらになってしまっているのが、気がかりではある。

レッスン176-レッスン161、162の復習

2018-02-20

メダリストってすごいなぁ、やっぱり

平昌五輪のフィギュアスケート男子は、羽生結弦選手が66年ぶりの連覇を果たし、宇野昌磨選手が銀メダル獲得と、最高の結果を出した(写真撮影:河野匠)。

また、スピードスケート女子500mでも、小平奈緒選手が金メダル!

日本中が感動し、湧いた。1つのことに一心に打ち込むってやっぱりすごい!

感じるのは、オリンピックに出場している選手みんながとっても人格者でもあること。いろいろなプレッシャーにさらされているだろうに、また年齢も若い人が多いのに、皆驚くほど、思いやりや感謝に満ちている。

マンション売却・引っ越しプロジェクト、その後

私事では、マンション売却に関して先週金曜日、一番目の内覧者の方から購入申し込みがあった。近くで飲食店を女性とその息子さんで店の近くで探していたという。

ローンに難あり、と聞いて期待していなかったのだが、地方銀行が引き受けてくれたという。契約日は2月22日に決まり、事前打ち合わせも済み、気持ちは舞い上がった。

こんなにスムーズに決まるとは思わなかった、ラッキー♪

「せめてカーペットを新しくして引き渡してあげよう」とリフォーム屋さんからサンプルをもらったり、ネットで本格的に新居探しを始めたりしていた。

…ところが!

昨日、不動産屋さんより電話があり、契約を延期してほしいとのこと。なんでも買主さんから「手付金(100万円)が用意できない」と連絡あったとのこと。

お母さんの方の老後資金を充てる予定にしていたが、それをやっぱり見直したとか…

そして、今日の昼、再び不動産屋さんから電話があった。

「キャンセルになりました」

最初から買主候補がいなければ平常心でいただろうけど、いったんその気になって舞い上がったのち急降下して、ずっこけてしまった。

いったいどういうこと?

「初めての内覧で即決まるとは、Iさん(不動産営業の方)の日頃の行いのおかげですね」「いやいや、たまさんの日頃の行いですよ」と不動産屋さんとお互いを持ち上げ合っていたけど、おそらくどちらの日頃の行いもよくなかったんだろう。

レッスン176-レッスン161、162の復習

レッスン176は、レッスン161とレッスン162の復習。

L161)聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。

L162)私は神が創造したままの私である。

ここで反応したのは、レッスンの中核ではないかもしれないけれど、

「『見る』という行為はすべて、自分の見たいと願うものを自分に見せることを目的としている。『聞く』という行為はすべて、あなたの心が聞きたがっている音を、あなたの心にもたらすだけである。」(L161-2-5,6)という箇所。

とすれば、マンションの申込も、そしてキャンセルも、私が見たくて聞きたかったこと、となる。

この件では前のレッスンのワークでも「(自分から)こじらすな。」というメッセージを感じていた。

私はこじらせたのか。

自分でトラップを仕掛け、それに嵌って喜んでいるんだろうか。

レッスン161の終わりには、「今日の主題概念はあなたにとって、怒りや恐れからの安全な脱出方法である。兄弟を攻撃しそうになったり、彼の中に自分の恐れの象徴を知覚してしまいそうになったら、必ず、ただちにこの概念を使うようにしよう。」(L161-12-4,5)とある。

私は買主さんに怒りを感じるゆえんはないが、「彼の中に自分の恐れの象徴を知覚してしまうそうになる」ことはあったかもしれない。

私と同年代、50代半ばと思しき買主の男性。どんな仕事をなさっているかは知らないが、他にも借金を持っているという。その上、これからこのマンションに対してローンを組もうとしていることに、強い恐れを感じていたのだ。だいじょうぶなのか、と。

そして、その思いをゲンジツ化してしまった。

自分が映しだすゲンジツ、だから縁は完璧

2月16日にレッスン176のワークをやった際のメモには、感じたこととして、

「よいことがあったときには感謝しやすい。

 悪いと思えることがあったときにこそ、感謝すること。赦すこと。」

と書いていた。

まあ、そんなんだけどね。

こうやって見ているゲンジツは、すべて自分を映している。

だから、現れる内覧者の方も、一人ひとりが私のある側面を見せてくれているのかもしれない。

日本的に言えば、「こういうのは縁だから」

縁には、フィーリングとタイミングが大事。

そして、この縁というもの、一枚めくれば、すべて自分が脚本演出しているのだから、まちがいはない。完璧だ。

私に、その完璧な買主は現れるのかな。価格を大幅に引き下げることになったら、次に行けるとこ、ない。

あ、いけない。またエゴのストーリーに乗っかっている。自分がこじられなければ、成るように成る。

限りなくツイテいて、限りなくハッピーでいてもいいし、上機嫌でいることが使命のひとつでもある。

レッスン175-レッスン159、160の復習

2018-02-16

平昌オリンピック真っただ中

平昌オリンピックの真っただ中だ。

私は小学校の頃から運動神経がにぶくて跳び箱3段跳ぶのにも難儀していた。そのためか、「より早く」とか「より高く」とか、あるいは1対1の「戦いに勝つ」ということに執着心がもてない。

格闘技にいたってはおしなべて「暴力」に見えてしまうし、ACIMを勉強し出してからは「この世は幻想だから」の言い訳のもと、「努力する」「頑張る」を投げ出してしまい、生来のぐうたら度がどんどん高まっている。

そんな私からしたら、オリンピック選手の極限の頑張りは目を見張るばかり。

空中でくるくる回るスノーボードなんて、いったいどうなっているんだ。同じ肉体構造をもつ人間とは思えない。

冬季スポーツの中でも好きなのは、フィギュアスケートだ(当然、見る方)。

冬は浅田真央ちゃんの、氷上の優美な姿を見るのが楽しみだった。少女らしい可憐さ、雛人形のような上品な顔立ち、それと対照的とも思える勝気さ、強さ。

成長していくとともに、真央ちゃんの表情は無邪気さ、楽しさから苦悩や厳しさに変わっていき、大人になることの定めのようなものも感じた。4年前のソチ五輪のショートの“失敗”からの大逆転ドラマは、一生心に残るシーンだと思う。

今日は男子フィギュアのSPがあった。羽生結弦選手が大けがから見事復活して現在1位。宇野昌磨選手が3位につけている。明日のフリーも優美でダイナミックな姿が楽しみだ。

レッスン175-レッスン159、160の復習

レッスン175は、レッスン159とレッスン160の復習。

L159)私は自分が受け取った奇跡を与える。

L160)私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

ここで意識が向かったのは、「与えることは、自分がすでに受け取っていることを確認する方法である(L159-1-7)」ということ。

癒しを与えるとき、自分が癒されることを知り、

赦すとき、自分が赦されていると知る。

同胞を神の子として見ることができれば、自分を神の子だと理解できる。

恐れや罪悪感は必要ない。正しい心眼ですべてを見ることができれば、この世のすべてが奇跡となる。

それは隠されているものではなく、すでに私たちに与えられているギフトなのだから、開いてその奇跡を受け取るだけでいい。

「求めさえすれば、すべてを受け取ることができる。ここでは、扉に鍵がかけられるようなことはなく、誰ひとりとして、どんなに些細な願い事についても、どんなに緊急な必要についても拒まれることはない。

キリストのこの黄金の宝庫の中ですでに癒されていない病気はなく、満たされていない欠乏や必要もない。」(L159-6-3,4,5)

なんて力強い言葉だろうか。

「あなたがあたえることができるように蓄えられている奇跡を見なさい。それは神があなたに与えると約束した贈り物である。その贈り物に、あなたはふさわしくないだろうか。

神の子を裁いてはならない。それよりも、神が定めた道を進みなさい。」(L159-10-1,2,3)

「自信のないふりをするのは止めよ」「自分自身であれ」

この復習をして私が感じたのは、「ヘタに自信のないふりをするのは止めよ」ということ。

私は自信がない。

何に自信がないのかー。改めて、考えてみた。

内から出てきた答えは、

「自分自身であることに」だった。

生まれて初めて出会った人間である、母が怖く、周りも怖く、

私はずっと「隙間家具のように生きること」をモットーとしてきた(ような気がする)。

隙間家具=そこそこ役に立って邪魔にならない。目ざわりにされない。

それは学校や会社になじむにはなかなかよい方法で、逆に信頼を得ることも多かった。

でも、私自身は生来「隙間家具」ではないのだ。

私が「自信がないふり」をしているとしたら、何かに攻撃されないように生きるためだ。

でも、その「何か」とは何だろうか。

自分の心の中に在る「恐れ」以外のなんだろうか。

「自分自身であることに対して、自信がないふりをするな」

すなわち、「胸を張って、自分自身であれ」

これがこの復習ワークから感じたメッセージだ。

自分自身であるということは、自分が使命だと思うことに素直になること。

ACIMに対しても素直になろう。ACIMの中には自分の使命があるように感じている。

琴音さんの歌を聴いて…、気づいたら正座してた

2018-02-14

琴音さん―「女神」の歌声

初めて琴音さんの歌を聴いたのは、2月4日(日)の夜。

たまたまつけたテレビで歌っていて、その歌声の美しさに驚いた。

ぐんぐん引き込まれ、気づくと正座して聴いていた。

何時からやってたんだろう、この番組。

「今夜、誕生!音楽チャンプ」…ふだん見たことがなかった。「次世代スターを夢見る挑戦者が歌ったりパフォーマンスをして、辛口審査員やロボット採点機がジャッジするという番組」らしい。

私が聴いたのは一曲。琴音さんは翌週は見事勝ち抜きチャンプとして挑戦者を迎えるということだったので、私は手帳の2月11日の欄に「TV 琴音さんの歌」と書きいれた。

そして日曜日の夜。午後内覧の方が来られた後、疲れが出てしまいつい忘れそうになったが、思い出して、聴いた

やっぱり素晴らしい…

声に魅力がある?

そう。

歌がうまい?

そう。

だけど、それだけじゃない。不思議な存在感がある。魂を鷲づかみにされて揺さぶられる感じ。

そう感じているのは私だけではないらしい。司会の黒木瞳さんも審査員の森久美子さんも、聴きながら涙を流している。ある審査員の方は「女神がおりてきた」と表現された。

女神がおりてきたー。

そう。本当にそんな感じを受けた。

もちろん万人ではないだろうけれど、多くの人を動かす何かがある。

私は彼女の歌に、絶望と希望の両方を感じた。絶望からの希望、といった方が近いかもしれない。

絶望の淵にあってやけっぱちになっている自分や、「生きることは妥協すること」と本当の自分を蔑ろにしている自分に対して、

「そうだよね、辛いよね、そうだよね、頑張ってきたんだよね」と寄り添い、

「でもね、でもね、見て、希望はたしかにある、いっしょに見て」と光の道筋を指し示してくれる。

そして、心の奥底の大事なところをやさしく開いて見せてくれる。そんな感じ。

開かれた人がカタルシスと喜びを感じ、涙するのではないかな。

「心眼」や「奇跡」ってこんな感じ?

琴音さんの歌う姿を見ていて、もしかしたら、「心眼ヴィジョン 」とか「奇跡」ってこの感じに近いのかな?とふと思った。

ACIMを学びながらも、私は心眼や奇跡が実感ではよくわからないでいる。

「奇跡とは真実の顕在化、現実化である。知覚が奇跡によって修正され見えてくる光景がヴィジョンである」(大畑学著、『A Course in Miracles Workbook精読』レッスン91より)。

最近の復習では、レッスン158に「その心眼は、あらゆる人々や状況や、すべての出来事や事件の中に、まったく陰ることのない光を見る。」(L158-7-5)、

レッスン159に「キリストの心眼は二つの世界の間の架け橋である。そしてあなたは、この世界から、赦しによって神性になった世界へと自分を運んでくれるものとして、安心してその力を頼みとすることができる。」(L159-5-1,2)とある。

よくわからないけれど、琴音さんは何かを発信していて、錆ついてはいるもののもそのレシーバーを持っている私たちにキャッチさせてくれる。そのレシーバーがあることを教えてくれる気がする。

そして私たちも同調して音色を勝手に奏でだすのだ。

「与えることは、自分がすでに受け取っていることを認識する方法である。それは、自分のもっているものが確かに自分のものだと示す証拠である。」(L159-1-7,8)とある。

16歳、新潟の女子高生だという琴音さん。

存在のちからに年齢は関係ない。それを才能というのかな?

受け取った私も、「受け取っていることを認識する」ために、何か発信できたらいいなと思う。

レッスン174-レッスン157、158の復習

2018-02-11

内覧者現る、だいじょうぶだろうか

『奇跡講座ダイアリー』というより『マンション売却ダイアリー』になっている、ここ最近 (^_^;)

きのう初の内覧のお客さんがお見えになった。

昼ごろ不動産屋さんから「本日3時にお連れしてよろしいですか」と電話があり、猛然とそうじし始めた。

70代と思しき女性と50代のように見える男性。夫婦と聞いていたけれど、えらい年の差カップルだなと思っていたら、あとで親子だとわかった。

とても人のよさそうな方々だ。「あら気持ちがいい部屋だね」と言ってくれたお母さんにはとくに親しみを感じた。

具体的に住まれるかもしれない方を見て、急に心配になってきた。

だいじょうぶだろうか。

ここは、

・交通、買物至便。

・角部屋、日当たり、通風、眺望良好

と、古いけれど、住みやすい部屋だと思う。

ただそれは、「管理組合の役員にならねば」という条件つきだ。役員になったとたんに、住人の一人から激しい攻撃の対象になってしまう。

この人たちが買ってくれたとして、後々ここを選ぶんじゃなかったと後悔することになるんじゃないか。

最近このあたりの中古マンション購入の半数以上は中国の方の投資目的だという。投資物件としてなら役員は回ってこない。そういう方に買ってもらえるなら、そっちの方が…?

自分が転居することばかり考えていたけれど、やはり具体的な購入見込者を見て不安を感じてきた。

ワークから感じたこと

こうした私の心配に対して、最近のACIMワークから感じたことは、

「そぐわなくなったものが剥がれ、そぐうものが嵌るだけ。見えている(ようにみえる)範囲がごくごく一部でしかないものを、誤って判断し小さい心でこじらせるな。」というものだった。

これは聖霊のメッセージ的なものだろうか。あるいは私の自己欺瞞か。

感じたのは、「困った住人がいて、それに振りまわされて自分が動くのだと見れば、その見方はまちがっている。あなたは“問題”と見せられたものを現実化している。」

「そうではない、これは単なる後押しにすぎない。」

「それより、購入希望者として現れる同胞のことを心眼ヴィジョン で見るようにしたら、それはよきものを残すことになるのだから、まっすぐでいてよい」

「“うまく”やる必要はない」

「具体的にどうしたらよいかわからなくなったら、ただただ、ひたすら周りに感謝すること」

「決して怒らず、人を批判することなく、よいと見えることにもよくないと見えることにも、ただ感謝すればいい」と。

ほんとうかな。

自分が感じたと思う「メッセージ」を書いていることも、イタイことなのかもしれない。

レッスン174-レッスン157、158の復習…誰のことも肉体としては見ない

レッスン174は、レッスン157とレッスン158の復習。

L157)今、私はキリストの臨在の中へ入っていく。

L158)今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。

復習するべき主題概念の高潔さと私の現状には大きなかい離があると思う。とくにL157は今はぴんと来なかった。

L158は、啓示と心眼ヴィジョン について説明して、啓示は直接共有することはできないけれど、心眼は共有できると説いている。ACIMを学ぶ者は聖霊から受け取った心眼で見ることによって、それを与えることになる、と。

「キリストの心眼には一つの法則がある。それは、肉体を見てもそれを神が創造した神の子と見間違うことはない。それが見るのは、肉体を超えた光であり、触れることのできる有形のものを超えた一つの想念である。(L158-7-1,2,3)」

「そしてその心眼は、あらゆる人々や状況や、すべての出来事や事件の中に、まったく陰ることのない光を見る。(L158-7-5)」

心眼…未だ習得できていない。

「今日あなたが与えるものとは、誰のことも肉体としては見ない、というこのことである。誰のことも神の子と認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。(L158-8-3)」

「今日あなたが出会う兄弟一人ひとりが、キリストの心眼をあなたの上に輝かせ、あなたに神の平安を与える新たな機会をもたらしてくれる。(L158-10-5)」

今日も午後4時に、別の不動産会社の方がお客様を連れて内覧の予定だ。

その方々のことを、「肉体としては見ない、同じ神の子と認めて挨拶する」ということを試みてみようかと思う。

だれが演者なのか

2018-02-09

不動産屋はみんなウソつきの演者!?

マンション査定に来てくれた4件目の不動産屋さんから、「不動産屋はどんないい人に見えても、みんな基本ウソつきです、だまされちゃわないように」と聞いてから、これまで来てくれた方を「そうなのか」と観察するようになった。

え、あの最初に来てくれた、実直を絵に描いたようなベテラン営業マンも?

「ここ、昨年末中国人にHマンションを買い負けたお客さんにちょうどいいんじゃない?」って話し合っていた、男女ペア営業も?

とくに女性は色白ぽっちゃりのかわいい方で、澄んだ瞳で「うちにお任せください」って言ってくれてたよ。

独立して地域密着で頑張ってるって不動産屋さんは、声がソフトですごく話しやすかったし。

「業界人はみんなそう。いや、ウソつきって言ったら、語弊あるな。“演者”“役者”なんですよ。お客さんの前では別人。僕も入社したばかりの頃はびっくりしましたから」

「見込み客なんて…、いくらでも社員をサクラに仕込めます」

…業界ウラ話に、私は身構えた。

無知で弱者な私 vs 狡猾な不動産屋さん、の構図があったかに見えた。

しかしー

落ち着いてくると、違和感があった。

はたして、演者はだれなのかー

私があえて伝えない売却理由

私がここを売って引っ越したい、と思ったわけは複合的なものだ。

①故郷でひとり暮らしをする母の足腰が弱くなっており、いつでも母のところに行ける準備がしたい。

②ここは築年数が経っていて、今後工事計画など管理を必要とすることが増えるだろう。

③だけど、世帯数が少ないうえ高齢の方もいて、任期が来ても役を降りられない感じ。

④管理組合の活動すべてにヒステリックに反対する、モンスター住人がいる。

不動産屋さんには、①~③のことは伝えたけれど、④ついては触れていない。私の主観だし。「モンスターみたいな方いますか?」と直接聞かれたわけじゃないし、と。

だけど、これこそがここを去らねばならないと感じている最も大きな要因だった。私は、正直ババ抜きでババを持っているような気分なのだ。だれか、引いてくれ。

もちろん不動産屋さんは管理組合のヒアリングもするから、すでに知っているのだろう。

でも、私は、しれっとしている。

内覧の方がいらしても、にっこり笑って会釈するくらいだろう。

演者は、はたしてだれなのか。

もしかしたら、未来の私の住まいの売主さんも、私のような思いで買主となる私を待っているのだろうか。

仕事のためならウソをつくキャリア

思いを巡らしていったら、若かりし自分を思い出した。

当時もフリーランスで働いていた私は、時々「ミステリーショッパー(覆面調査)」という仕事を請け負っていた。

お客のふりをしてお店に行き、その店の見せ方や接客を調査してレポートにまとめるというものだ。対象となるのは高額商品を扱う店が多く、店内のヴィジュアル面での見せ方から、接客員の服装、言葉遣い、トイレの美しさまで、しっかと見てまとめる。

私の役は、商品知識に乏しい30代の独身女性。買わせようとプッシュする販売員と、買いたいそぶりを見せながら観察する私。

いずれが、きつねか、たぬきか。

ある調査後、夜自宅に戻った時には玄関ドアの前で販売員が「今日決めてもらおうと思って」と待っていた、その仕事熱心さにびっくりした。(見積もりまで取ってもらうこととの指令で、住所も氏名も書いてきていた)

その仕事で、私はクライアントからはそこそこの評価を得ていた。

そう、私は「仕事のためならウソも平気な演者」という意味では、キャリアが長かったのだ。

ACIMをやるずいぶん前から、そういう仕事は自然となくなっていったが。

はたして、今回だれが演者なのかー。

「自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならない」

ACIM的に見たら、話はまったくちがってくる。

全部、全部がつくりもの。

私はエゴ・テーマパークの「マンション住み替え」アトラクションに興じるひとつの体にすぎない。キャストの不動産屋さんは、十分な訓練も受けていてまるで本物のお城を案内してくれているようだ。

私はすっかりアトラクションに魅了されており、家に帰ることを忘れている。

今朝は、レッスン174で、レッスン157、158の復習。本文には

「自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、このレッスンも習得するのは難しくない。」(L355-10-2)とある。

…、みんな私のひとり芝居なのか。

いったいだれが演者なのか。役からおりたら、だれになるのだろう。またちがう役を演じるのかな。貼りついた役はいくつあるだろう。

自分ははたしてだれなのか。

レッスン173-レッスン155、156の復習

2018-02-07

気が休まる水曜日

なんだか解放的な気分で、気が休まっている。

なぜかというと、水曜日―不動産屋さんの定休日、だから。

今日は契約した不動産屋さんからの電話も、未契約で「ぜひうちとも契約を」という不動産屋さんからの電話も訪問もないはず。

おととい、一括査定に参加してもらったけれど早々に断っていた不動産屋さんから電話がかかってきた。

「ネットで見ましたよ。なんだ、専任契約じゃないんですね。一般だったらうちとも契約してくださいよ」

ドキッ

そうだよね、そう思うよね。私も専任にするつもりだったんだ。結果的に一般になったけど。

あ、でもね、今のところ契約する会社をこれ以上増やすつもりはないんだ。

過剰反応する必要はないけど、契約した不動産屋さんから、「契約を求める新規の不動産屋さんがいつ直接訪ねてくるかわかりませんよ」と聞いて、どこかしら身構えていた。

「私が言うのもなんですが、不動産屋はありとあらゆる手段を使って契約を取ろうとしますから、気をつけて」と念押ししていったし。

私は自分から出ていく方はそうでもないのだけど、自分の空間に来られるのはキンチョーが高まる。いつもはしないドアチェーンもおとといから、しっかとかけた(ACIMでいう「防衛」である)。

でも、今日は大丈夫。不動産屋さんはお休みだ。大いに羽根を伸ばして休んでほしい。

こんなクローズドな性質で、興味を持った買い手候補の方に家の中をお見せする「内覧」を何回もこなせるのか、不安だ。おそらく一回ごとにキンチョーするんだろう。あまり今から身構えないでおこう。

内覧希望者がまったくなかったら…。

そっちの方がかなり心配だ。

レッスン173-レッスン155、156の復習

レッスン173は、レッスン155とレッスン156の復習。

L155)私は一歩退いて、神に導いてもらう。

L156)私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。

このレッスン173では、レッスン155と156の文言で、神さまと聖霊とをコンパスとするこの世での生き方をもう一度確認する。

この両方のレッスンとも、本文の一番最後の宣言がエッセンスだと思う。

L155「私は一歩退いて、神に導いてもらう。私は神に至る道を歩きたいのだから。」

L156「私は完璧な聖性の中で、神とともに歩む。私は世界を照らし、私の心を照らし、私とひとつのものとして神が創造した心のすべてを照らす。」

「神は愛であり、だから私も愛である。」

このワークでは、復習Ⅴを総括するフレーズ「神は愛であり、だから私も愛である。」をより意識した。

このフレーズは、短いながら、私たちの意識を動かす強力な2つのフックがあると思った。

1つは、文字どおり「神は愛である」というところ。

これは、私たちが神に対して無意識に投影している「罰する神」「恐れるべき神」というイメージを根幹から上書きする役割を果たす。

もう1つは、「だから、私も愛である」というところ。

「神は愛」「だから私も愛」という2つの文は、今の私には強引とも感じる。この文で、神と私はつながっているんだ、と潜在意識にしみ込ませる。

復習Ⅴを通して、この文言を唱えることで、古い心のOSの更新を図っているのだ。

…私ははたして愛になりうるんだろうか。

今世では無理かな、と、はなから投げ気味だ。

ワークをしていて感じたのは、私はやっぱり感謝が足りないということ。言葉で「ありがとう」を言うのはけっこう慣れてきたけれど、心がね。。。

「本当にありがとう」と心から感じている時は、逆に言葉にできなかったりする。

コメントもらう。すごくうれしかったけど、その前に固まった

2018-02-06

コメントもらった、固まった

この『奇跡講座ダイアリー』にコメントをもらった!

同じ『奇跡講座』の学習者だという、くさちゃんさん ♪

先月の18日のことだ。

すごくうれしかった!!

でも、その前にびっくりの方が大きくて固まってしまった。それで、「どうも。よろしく」みたいな返信しかできなかった。

私は数年前にACIMに出会って、心惹かれワークを始めて、それからひとりでワークをしていて、何かしら発信したりシェアしたいと思ってこのブログを作ったはずだった。

だけど、同時に「世間」が怖かった。

世の中から見るとACIMの考えは極端に見えるし(極端どころか、「世界はない」と言っている)、根幹の「赦し」という概念も、「じゃあ、悪い事や悪い人をそのまんまにしておけってこと?」「ただの現実から逃げているだけじゃないの?」などと言われそうで、そうした意見に対する答え方もよいかわからなかったから(自分自身の心の声だ)。

元々うまく自分の意見を言えない質なのだ。

つながっていない架空のブログ?

メジャーなブログの会社のブログは人目にさらされてしまうかな。WordPressならそんなに目立たないか。

見てもらいたいから、作るブログなのに、見られた反応が怖い…。でも、ここにもACIMの学習者がいると声をあげたい。そんな複雑な気持ちがあった。

だけど、私の心配をよそに、インターネットの大海原の中で『奇跡講座ダイアリー』の小船が発見されることはなく、何も変わらなかった。

ずっと前に英語のコメント、何かの宣伝なのかな?そういったのを30個くらいもらったけれど、意味が理解できず放置していて、その後コメントはなかった。

いつしか私は、パソコンの向こうの鍵付きダイアリーをこそっと開けて日記を書いている気分になっていた。以前お笑いタレントのフルーツポンチ村上さんがお笑い番組で、どこにもつながっていない「架空のブログを書いている」と話して、皆にきもがられていたが、私もそんな感覚に陥っていた。

でも!

私のブログはつながっていたんだ!

くさちゃんさんから、2度目にコメントをいただいた時、少し「びっくり」が治まって「喜び」のリアクションができた。

「鏡のむこうとこっち」から次のステージへ

私は、知らないうちにACIMの世界とこの世のゲンジツの間に鏡でも置いていて、その二つの世界を分けていたようだ。それこそが、ACIMのいう「分離」の世界観なんだろう。

観念の世界のACIM。心の中の聖域。

やっぱりACIMは私にとってゲンジツからのシェルターになっていたのか。

その鏡の向こうから、くさちゃんさんが「こんにちは!」と出てきた。

私の返信に対して、くさちゃんさんは、ACIMのワークをしていることをより具体的に書いてくれて、やっとゲンジツ感が湧いてきた。

ああ、つながっていた…

ACIMの教えどおり、このコースはひとりで歩む道ではない。わかちあってこそ習得できる道なのだ。

いつまでも、鏡のなかの個室にこもって拗ねて体育すわりをしていてはだめだ。

くさちゃんさんはブログも書いていることを発見。まだ心の筋肉はキンチョー気味だけど、そのうちに遊びに行けるかもしれない。単に本やワークブックを通しての学びじゃなくて、次のステージに行こう。

私は自分のきもちを表現するのが得意じゃないが、じつは感激しているんだ。

鏡の向こうからの「こんにちは」に!

レッスン172-レッスン153、154の復習

2018-02-05

自宅マンション、売りだし開始

自宅マンションの一括査定をお願いした後、どの不動産屋さんに仲介を依頼をするか迷っていたが、ようやく決めて契約を済ませた。

1社とだけ契約する「専任」という契約と、複数社と契約できる「一般」という契約があって、「『一般』はいろんな不動産屋さんが『うちも契約を』と直接訪ねてくるよ、やめたほうがいい、オートロックもないマンションで」と聞いていた。

また、1社だけに絞り込んだ方が不動産屋さんもがぜんやる気になる、と。

だけど、2社まで絞り込みもう一度その2社の担当者とあったが1社に絞りきれず、結局「一般」での契約をお願いした。

そして昨日から不動産仲介サイトへの掲載がスタートした。

自宅内の写真も載っている。自宅のキッチンやお風呂をネットで見るのはヘンな気分だ。愛着のあった住まいが私の手によって、売りに出されている。

売ったおカネから諸経費を引いて買い替えができるところって、どこかな?20代の時ならいざ知らず、中年になって住まいのエリアを変えるって大きなことだな。とくに最近とみに体力気力が衰えている私にとっては、一大事業だと感じる。

レッスン172-レッスン153、154の復習と防衛する私

レッスン172は、レッスン153とレッスン154の復習。

L153)防衛しないことの中に、私の安全がある。

L154)私は神の司牧者のひとりである。

自分から仕掛けたことだけれど、私はマンション売却・住み替えに恐怖を感じていた。

一括査定に来た不動産屋さんは口々に、自分も不動産業なのに「不動産屋はしれっと平気でウソをつきますから、他社さんにだまされないでくださいよ」と言っていく。

「このエリア限定で去年から買いたがっている女性がいる」とある不動産屋さんに聞いて気をよくしていたら、次に着た業者さんが「そんな人、実在するわけないじゃないですか」と言い、「え、そういうもの!?」と思う。

「高値で査定する会社は、専任契約を取るためのテクニックで、契約が取れたら『高すぎて売れない』と段階的に数百万円価格を下げさせて、結局一千万円近く値引きしてさせたあげく、提携業者に買い取らせるシナリオがあるんです」と別の営業の方。

各営業マンから不動産業界の「裏側」の話を聞かされ、短期間のうちに「こいつも、もしやウソをついているのか」とすっかり「不信のメガネ」をつけて不動産屋さんを見るようになっていた。

だまされるなんて、ジョーダンじゃない!

私が「専任」を選べず「一般」にしたのも、一社だけに囲いこまれることにリスクを感じたからだった。

でも、ワークをして、「ありゃ、これこそが防衛だな」と気づいた。

私は、草食動物の私を狙う肉食の不動産屋さんと闘っているような気になって「そうは思うようにさせるか」と思っていたけれど、これは「勝ち負け」ではないんだった。

つい、内に持っている「好戦的」なところが出てしまう(^_^;)。

闘うのではなく、「聖霊さんに導いてもらう」のだった。

恐ろしいゲームをする必要はない

救済とは、幸せな子どもたちの楽しむゲームに喩えられる。それは、ご自身の子どもたちを愛する神によって計画された。その神は、恐ろしい玩具を片づけて楽しいゲームを与え、恐ろしいゲームは終わったと教える。」(L153-12-1,2)

そうだ。そもそも、恐ろしいゲームをする必要などない。

「あなたは自分の父から見捨てられて、望みを失ったというゲームをしてきた。罪と罪悪感で気が狂っている恐ろしい世界で、たったひとりで恐怖に震える役を演じてきたあなたは、今、幸せになりなさい。」(L153-13-1)

うん。穏やかで幸せなゲームでいいんだ。

そして、ワークで感じたことは、

「ここを売って引っ越しできる可能性自体が、大きな恵みなんだということ」だ。母との共有名義のマンション、15年もの間こうしてここで快適に過ごしてこれたのも、母のおかげだし天の恵みだ。

日当たりもよく、すごく心地よいところだった。

この空間に護られていたことも、感じた。

復習Ⅴへ & レッスン171-レッスン151、152の復習

2018-02-01

復習Ⅴへ

復習Ⅴには、全体を通して唱えるテーマがある。

「神は愛であり、だから私も愛である。(復習Ⅴ 序 4-3)」

毎日の復習はこの概念とともに始める。そして、この概念とともに終える。この概念とともに眠りにつき、朝目覚めてからもまずこの概念を意識に上らせる。

「愛である私」という自己概念を強力に育てていくことが、この復習のテーマなのかな、と思う。それは今後出会う周りの人に「愛である私」を伝えて「愛である私」を呼び起こしていくしごとのためでもあるんだろう。

イエスは、この復習の序文で「この復習を私への贈り物としてほしい。なぜなら、私が必要としているのはただ、私が語る言葉をあなたが聞き、それを世界に与えることだけだからである。(復習Ⅴ 序9-1) 」と言っている。

そして「私は真の自己からあなたに呼びかけているが、その自己はあなた自身の自己にほかならない。(9-4)」と言う。

この自己への道は、兄弟と歩む道、私たちはいずれ各々真の自己となり神とひとつになる。

「それならば、生きているもので、あなたとひとつでないものなどあるだろうか。(9-9)」

このフレーズが心に響いた。

このゲンジツの私は、他者を「搾取する者」や「うまくしてやろうと思っている者」に見えているからだろうか。

レッスン171-レッスン151、152の復習

レッスン171は、レッスン151とレッスン152の復習。

L151)すべてのものごとは神を代弁する声のこだまである。

L152)決断の力は私にある。

実生活では、マンション売却のための一括査定をお願いしたのち5社の不動産屋さんに訪問査定をしていただき、短期間のうちに見ず知らずの男性が相次いで家を訪れ部屋を覗き込んでいく(それが査定だ)という状況に、強いストレスと緊張を感じていた。

また、その査定結果は安いところと高いところには1,500万円もの差があって、「いったいここは本当はいくらが妥当で、いったいどの不動産屋さんに仲介をお願いすればいいの?」と、訳がわからなくなっていた。

各社からの電話やメール攻勢にも緊張し、あげくの果てには胸が締めつけられるように痛くなってきた。

ワークをしていても、「不動産屋さん、どこにしよう、早く決めなきゃ、どうしよう」がチラチラ出てきてしまい、ざわざわする。すべてエゴ的反応だ。

「あなたには判断するということができない」

レッスン151、152の本文を読んだ。

「どうしてあなたに判断することなどできるだろう。あなたの判断は、五感が差し出す証拠に基づいている。ところが、これ以上に間違った証拠というものはほかにあったためしがない。(L151-3-1,2,3)」

あ゛… そ…

「これまであなたは、自分で判断することを控えるようにとたびたび勧められてきたが、その理由は、それがあなたにふさわしくない権利だからではない。あなたには判断するということができないからである。(L151-4-2,3)」

あや…

これらの文言が、「不動産屋さん、どこにしよう」と迷っていた私の頭をコーンと叩いた。

そうか、私には判断できないのか。

査定価格、会社の力、手数料割引や売り方、担当者の第一印象、キャリア、手腕などなど「細かく分析」し「総合的に判断」しようとしていたつもりが、「五感はあてにならない」し「判断するということができない」のか、と。

特にいくらで売ってくれるつもりがあるのかという査定価格には、大きく心を動かされていたけれど、そもそも「おカネ」なんてものはないはず。

あるのは、神の豊かさだけ。

私たちはそれを自我という制限のプロジェクターを通してこの世というスクリーンに映しているだけ。

神はこの世を作ってはいない。

自我という影と制限、罪悪感と恐怖を映しているだけなのだ。

大事なのは聖霊の存在を感じ、その導きを受け入れていくだけなんだ。

「誰がパートナーなのか」

何日かこのワークをしていて感じたのは、

「やっとここまできたか」という誰かの声。これが聖霊さんの言葉なのか。

マンションの大型修繕計画やモンスター的住人、役員でごたごたしそうで、「引っ越ししよう」と思ったが、もしかしたら一連のできごとは、故郷にいる親のことが気になけつつ動けないでいるがに、何らかの変化をもたらすために私の無意識が引き起こしていることか…

そもそも聖霊さんの後押しのプロジェクトなのか…?と感じた。

それは、この先どういう展開になるのか私からは見えない、だから私には何もわからないが。

そして、「誰がパートナーなのか(不動産屋か、聖霊か)」と問われている気がした。

もちろん正解は「聖霊」だ(正しい見方を覚えていれば、そのはず)。

レッスン152本文の冒頭には、「自分の決断に因らない限り、誰も損失を被ることはありえない。苦痛を被ることを自ら選択しない限り、誰も苦痛に苦しむことはない。(L152-1-1)」とあり、

また「あなたの身に起こることで、あなたの願望を表していないものは一つもなく、あなたが選んだもので、そこから省かれるものも一つもない。ここに細部にわたって完結したあなたの世界がある。(L152-1-5)」ともあった。

そうなのだ、困ったや苦痛を感じたとしたら、それは私が作ったもの。すべては私が描く世界なのだ。

上手にワークしているつもりでいたけれど、差し迫るゲンジツの前ではすっかりこういう教えを忘れていた。

そして、今覚えているつもりでも、またすぐに忘れるんだろう。

ただ、このマンション脱出&住み替えプロジェクトには聖霊さんの導きがあるようにも感じた。

恐れないでひとつずつ進もう。なるたけ耳をすまそう。

私が私のじゃまさえしなければ、すべてはうまくいく。