2018-02-26
平昌オリンピック閉幕、日本人選手頑張った
きのう平昌冬季オリンピックが終わった。
日本は金4、銀5、銅4、冬季最多の合計13個のメダルを獲得した。
私はすごく関心があったわけではなかったけど、やっぱり日本人選手の活躍をテレビで見ると、単純にうれしくなった。
ライブで羽生結弦選手や宇野昌磨選手のフリーの見事な演技を見てドキドキし、内気そうに見えた宮原知子選手がフリー演技後ガッツポーズした時にはパチパチと拍手した。
女子パシュートは日本人らしい集団の力を見せ、見事金メダル獲得。そのメンバーでもあった高木菜那さんは「高木美帆さんのお姉さん」と呼ばれ続け妹にコンプレックスを持っていたというが、新競技マススタートで優勝、初代女王となった。どんだけ努力してきたんだか。
女子カーリングチームも見事銅メダル。清楚な美人が多くて競技中の真剣な表情がひときわ美しく見えた。瞬間最高視聴率は42%だとか。
みんな、みんな、一言でいうと「すごーい!」だ。メダルに届いた人も届かなかった人も。
このオリンピックに照準を合わせるなら、4年に一度。3年と11ヶ月と何日かはこのために努力していたんだろうか。
私のほうは、寝っ転がってテレビを見て「感動」をもらえるから、気楽なものだだ。だが、選手はどれだけ他のことを捨ててこれだけに絞って懸けたのか。
すごい熱とパワーだ。想像ができない。とにかくすごい。
一方で冷めている自分もいる、歳のせいか
敬意を感じる一方で、冷めている自分もいる。
それは、一つには私がもう結構な年だからなのかもしれない。
ふりかえってみると、人生の前半というか40歳位までは、私も「世の中でどう自分の力をどう発揮するか」「この世界でどう自己実現するか」に関心があった。
それが40歳を超えた頃から価値観が変わった。どういったらいいだろう、人生の時間には限りがあると実感できるようになり、これまで魅力的に映っていたものがそうとは思えなくなった。
それがユングのいう「中年の危機」というものだと、カルチャー講座を受けて知った。
「世の中の自分」ではなく、もっと「本来の自分」を生きたくなったのだ。
人生の前半は、どんどんチャレンジしたらいいと思う。それが楽しいし、ワクワクするし、力もどんどん湧いてくるし、きれいだし。キラキラしているし。
ああ、私は遠いところに来ちゃってるんだな、とキラキラしたチャレンジ精神を客観的に眺めている自分に気づく。
『奇跡講座(ACIM)』と勝負の世界と私
私がどこか冷めているところがある、もう一つは、やはり『奇跡講座(ACIM)』の影響もあるかもしれない。
もしかしたら私の解釈自体まちがっているかもしれないけれど、ACIMは非二元論に基づいていると学んでから、「勝負」に感情をなるたけ近づけないようになった。
「勝負」は「勝」と「負」。二元論の代表的なものともいえる。近年ますます「強」と「弱」、「勝」と負」がはっきりしてきて、世の中で「強」と「勝」をGETするために幼少期から知らずのうちにレースに参加しているようにも見える。
「勝」を求めた瞬間、「負」も引き受けることになる。それはそれでエキサイティングでワクワクするゲームではあるけど、、、これからの私が求めるのとはちがうかな?
ACIMのなかで「すべてを含むものに対極はない」といっていたのは、どのページだっただろう。
ゲームは好きだし、勝つのも気持ちいい。過去には負けず嫌いな自分もいた。今も「うまくやりたい」自分がいる。
でも、落ち着いて穏やかでいるときの私が先を眺めた時、目指したいのは、「勝負」を超えた世界だ。
「勝」も「負」も手放して、あたりまえのように与えられ満たされている世界。頑張らなくても愛され癒され感謝される世界。恐怖と罪悪感を手放した世界。
常識的な方の私は、「ひとり身のおばさんが何言っている、その考えじゃ野垂れ死ぬよ」と言う。
たしかに。
でも、それを確かめてみるのもいいかな、とヤクザな方の本来の私。
問題は、ゲンジツで頑張らないとしても、心の姿勢をACIMの教えどおりに正し「赦すこと」を忘れてはならないことだ。
ついつい、それを忘れ、単なるぐーたらになってしまっているのが、気がかりではある。