マンション売却・住み替えプロジェクト進行中

2018-01-26

東京にも雪

気づけば、またブログから遠ざかっていた。ワークは1月9日から1月17日までレッスン170で足踏み(次の復習Ⅴの序文の原文解釈に時間がかかってしまった)。1月18日からはワークそのものから遠ざかっていた。

その間(1月22日)には東京に大雪が降って、一日で「ここ、東京?」と思うくらい雪が積もった。私は富山で買った、靴底のギザギザの彫が深いショートブーツで、がしがし歩いた。

「闘うか、逃げるか」で、逃げるをえらぶ

実は、昨年末から始まったらしい「マイプロジェクト」あって、そのゲンジツに翻弄されていた。

それは、「マンション売却・住み替えプロジェクト」だ。

それは去年末に、同じマンションに住む方との立ち話から始まった。

「私たち、たま(私)さんに、来年も理事やってもらおう、って話してたの」と、古くからいる上の階の女性。

えー、そんな!

来春2年の任期がようやく終わるというのに~。

役員は当番制だがなかなか理屈どおりには進まない。今回のお役も何人か飛び越して、いりなり総会の議案に名前が載せられて「聞いてないよ~」と思ったけれど、多数決で可決。私の番になった。

古いマンションだから、これから大型修繕工事が必要だしそのための多額の借入も必要、やるべきことはたくさんあるが、「問題児」住人もいて、そうは物事が簡単にいかないことは火を見るより明らか。

やっと解放されると思ったけど、何らかの「政治力」で埋められてしまいそうだ。

逃げるか、闘うか。

…、で「逃げる」を選んだ。

今年は、マンションのことにかかずらあうより、何かあったらすぐ母の元に迎える態勢を作りたいのだ。

「マンション一括査定」―どの不動産屋さんを選ぼう?

そう思ってから、しかしもう築年数が40年の古マンション、いったい売れるのか、売れたとして住み替えができる価格なのか、不動産売却・購入にかかる費用はどれくらいなのか、引っ越すとしてどこに?などなど、いろんなことが頭をぐるぐるしていた。

今は「マンション査定一括サイト」なる便利なものがある。自分の物件概要を入れて「ポチっと」押すと、不動産屋さんに一斉に情報が渡り数社が査定に名乗りをあげる。

私は、最初1社の査定を受けた後、1社だけではわからん、とポータルサイトをポチっと押し、結局先週5社の訪問査定を受けた。

査定金額はあくまでも査定で、その金額で売れるという保証ではない。しかし、その査定金額、1,000万円~2,500万円と上下1,500万円も幅があり、いったい査定金額ホントはいくらなんだかわからなくなってしまった。

売値によっては住み替え、できそう。買い替えのためには、できるだけタイミング良く高く売りたい。

「昨年このエリアで探していて、中国人の方に買い負けてしまった方がおられるんですよ」という話を聞いて、そこがいいと思ったが、次に査定に来た営業マンに漏らしたら、「その人は実在するんですか」と言われた。「この業界、平気で見込み客といってサクラぐらいも仕込みかすからね」

へ!? そーなの?

いったい誰のどんな情報を信じていいのか、頭がぐるぐるになってしまった。

どの不動産屋さんを選ぼう?仲介手数料は「価格の3%+6万円」、価格が2,000万円と仮定すると70万円以上も払うことに。売りも買いも同じところでやるとしたら、手数料だけでその倍…、150万円。

どの人、どの会社が売る力があって信頼できる??

営業マンからはプッシュの電話。どうしよう??

気づけばこの世のゲンジツにどっぷり浸かっていた。

これは私が脚本・監督のゲームのはず、ゲームから脱出せよ

すごい深刻な状況というわけではない。恵まれている中での小さな判断と言えなくもない。

そもそもACIM学習者の目で見れば、いずれも幻想。自分が入り込んでいる幻のゲームか映画。

映画の登場人物が、マンションをいくらで売ろうと関係ないはず。

大事なのは、自分がしている幻のゲームに気づいてそれを手放し、神と聖霊に心の焦点を合わせること、のはず。

だけど、今の私は、自分が演出したであろうゲームの主人公に成りきって、どの不動産屋さんがいいか、そのゲームの選択肢に迷っている。

少しは時間をかけて学習したつもりになっていたけど、まったく、、、だな~

目をさませ、ゲームから脱出せよ。聖霊さんの声に耳をすませ。

 

とりあえず今日から復習Ⅴへ。

レッスン170-神に残酷さはなく、私にもない。

2018-01-12

ワークとダイアリーブログの意味

新年のワークは元旦のレッスン169からスタートした。実家でのワークだったので、瞑想中母から声をかけられ、イラッとしてしまったことをダイアリーに書いた。

途切れつつも去年一年になんとか90個やったワーク。

ワークをしてダイアリーを書くことは、だれに向けたものでもなく中途半端なことをしていると自分でも思うけれど、私にとっては旅の小さな塚のようなもの、あるいはスタンプラリーのハンコみたいなものだし、ACIMと私を繋ぐものとして、役にたっているんじゃないかなと思う。

ワークの内容を復習することにもなるから。

レッスン170-神に残酷さはなく、私にもない。

レッスン170は実家で原文の読解をして、3日からワークしたもの。その後、東京に戻って気が抜けて呆けていたが、また9日から再開した。

「正当防衛で攻撃していると考えるとき、あなたは残酷になることが保護であり、残酷さのおかげで自分は安全だと思っているのである。それは、他者を傷つけることが自分に自由をもたらすと信じる、と言っているのである。(L170-1-3)」

「恐れから身を守ることと攻撃することが同じだという考え方は、徹頭徹尾、狂っている!そこでは恐れが生み出され、血をすすりながら大きく育ち、膨れ上がって猛威を振るうようになる。(L170-2-1)」

恐れと攻撃、残酷さについて書かれたレッスン170の冒頭を読んで、真っ先に、北朝鮮の最高指導者、金正恩氏が浮かんできた。

アメリカに攻撃されてしまう前に、何とか「正当防衛力」をつけようと去年ミサイル発射と核兵器の実験を繰り返している、その人。兄・金正男氏が暗殺されたのが遠いことのようだけど去年2月のこと。やはり関与があったのか。

その心は、恐怖と疑心暗鬼でいっぱいなのだろうと想像できる。

恐怖を前提とすると、周りがみんな敵に見える。そうして攻撃してくるように見えるから、防衛する。その防衛が過剰になると「やられる前にやってしまえ」が正しく見えてくる。

だれの心の中にも、「小さな金正恩」がいる。

空想上の正当防衛が展開されるための前提

レッスン170では私たちの「空想上の正当防衛が展開されるための前提」として、次のような考えが挙げられている。

1つは、「想念はその源を離れる」という誤った前提だ。

神は攻撃しない。正当防衛と名付けつつ攻撃を正当化したこの考えは、「想念はその源を離れない、ゆえに私たちは今も神とともにある」とするACIMとまったく異なっている。

2つめは、私たちは「愛ではなく、恐れに向かって慰めを求めているのだ」ということ。そして逆に愛が敵となる。そして愛が敵となる一方で、恐れから来る残酷さが自分の拠りどころ、神となる。

レッスン170では、私たちが崇めてしまっている残酷さを手放す訓練をする。近年は昔より「やられる方がバカなんだ、やられるよりやってしまえ、残酷が勝つ」といった風潮が強くなってきている気がしているが、それは私だけだろうか。

北朝鮮の最高指導者ほどではなくでも、私たちには恐怖と防衛心がある。だから、残酷さも防衛も捨てることは、荒野にひとり丸裸で取り残されるかのような、怖さがある。

レッスン170は、怖さの本質についても記述されている。

「恐ろしくて乗り越えることなどできないかに見えるその妨げとは、神ご自身に対する恐れである。」

私たちは残酷さを崇めており、神にその属性を被せて、恐れの象徴として神を見ている。これが私たちの無意識に在って私たちを支配する「ボスキャラ」なのだ。

心の奥底の神への恐れはすさまじく、レッスン170のような、自分の残酷さを捨てて代わりに愛を見るワークは、数回やったくらいでは全然効かないんじゃないかと思う。

イライラ…因果は逆

実家でワークをしている時は、ひとりになれる安全なワーク空間が守られないとイライラしていたけれど、ワークをしていて、イライラする状況は、私が「怒りたい」「溜まった攻撃エネルギーを発散させたい」がために、その状況を創り出しているのだと気づいた。因果は逆なのだ。

今はいらいらしたり、腹立たしく思った時は、これを思い出して、なるたけ早く手放すようにしようと思っている。

レッスン169-恩寵により、私は生きる。恩寵により、私は解放される。

2018-01-10

恩寵とは

昨年末12月27日に英語と日本語版でレッスン169の本文を読み終え、帰省後の29日~31日にかけてワークをした。

本文が長かったのと、「恩寵」という言葉にいまいち馴染みがなく恩寵とはどういうものかが引っかかり、難しく感じた。

「恩寵」は原文ではgrace。辞書では、恩寵、神の愛、恩恵とある。

大畑学さんの『A Course in Miracles Workbook精読』では、「神の恵み」と訳され、主題概念は「私は神の恵みによって生きる。私は神の恵みによって解放される」となっている。こちらの方が言葉としては易しい。

レッスン169本文では冒頭「恩寵(grace)とは、神の愛の一側面であり、真理の単一性の中に充溢している状態に似ている。」と説明があり、続いて「それは完全にこの世を超えたところまで導くものなので、恩寵を目指すことは世界で最も崇高な志である。」と加えられている。

それからずっと恩寵の説明が続くけれど、わかったような、わからないような…。いややっぱり、わからない…。

読みすすめるにつれ、禅問答ってこんな感じかな?という気分になってくる。

第2パラグラフには、「恩寵とは、憎しみと恐れに満たされているかに見えるこの世の中で、神の愛を受け入れることである。」とある。恩寵とは「神の愛を受け入れること」、そうすれば「もはや恐れの世界の実在性を信じることはできない。」(L169-2-2)

「恩寵とは学べるものではない。(L169-3-1)」とも書かれているが、学んだ結果の最終段階を超えた、その結果として気づいたり感じとれたりりするものなのかもしれない。

「神、在り」そして、この世はない

ACIMの学びは最終的には「神、在り」という一点に行きつく。「そして、神の実存のうちに、神はあらゆるものを包含する。心の中には神以外に何もない。私たちは『神、在り』とだけ言って、その後は口をつむぐ。(L169-5-1)」

この「神、在り(それ以外には何もない)」、概念としては受け入れているけれど、実感としてはわからない。恩寵とはこれが実感として感じられるようになることだろうか。

「世界は一度も存在したことはなかった。永遠が、恒常の状態であり続ける。(L170-6-6)」

「私たちは以前から何度も繰り返してきたが、あなたはすでに終わっている旅をしているにすぎない。(L170-8-3)」

今の私にはわからなくても、旅はすでに終わっている。神という恒常だけがある。私たちは、すでに撮影済みの映像をくりかえしくりかえし見ているにすぎない。それが実感としてわかる時がある。

そのために今は、(わからずとも)自分に割り当てられている配役を果たすだけ。そう言われているようだ。

「だから、あなたには自分の役割を果たすために為すべきことがあるということだけで、充分としよう。(L170-11-1)」とある。

恩寵を感じられるようになるためには、これまたくりかえされていることだけれど、聖霊の導きにしたがって、赦しを実践すること。ここに行きつくようだ。

恩寵―私の考え

ワークブックの文章は抽象的で、読んでいるうちに意識が上滑りしていて、腑落ち感もイマイチない。

ワークをして、恩寵とはわかりやすくいうと、感謝なんだ、と思った。

神の恩寵、恵みが感じられるようになった状態はおそらく感謝に溢れた状態ではないだろうか。この世の醜いところ、残酷さ、怖れ、罪深さ…といったものが意識から離れ、ただただありがたい、そういう状態が恩寵を受けた状態ではないだろうか。

感謝ということばは、どこかしら下から上へ、施された者から施した者へと向かう印象があるが、そうではない。上下なくすべてに在るものであり、この世で表れうる最高のものではないだろうか。

言葉の「ありがとう」だけじゃなくて、心から感謝を感じること。感謝を感じられることが恩寵なんじゃないかな、と思う。

私は元々愚痴っぽくて、感謝が足りない。今は「ありがとう」と口にするよう意識しているけれど、心から言っているかといえば、そうじゃないことも多い。

今年は感謝できる能力をアップしたい。

2018年、新年のきもち

2018-01-09

東京と故郷・富山には時差がある!?

年末年始は母と二人濃い時間を過ごすことができた。

5日に東京に戻ってきた後、ぼーっとしてしまって東京の生活リズムを思い出すのに時間がかかった。

今朝、毎年もらっている銀行の一年カレンダーをしごと部屋に貼り付け、ようやく2018年に立った気がした。

故郷と東京を行き来した際はいつも“時差”があるかのように感じてしまう。私にとってあまりにも世界観がちがって、それに反応して自分の在り方も変わってしまうからだ。“時差”ならぬ“地差”とでもいうべきか…

実家では母の家で母からの刺激に対してリアクションしているだけ。何日かいっしょに過ごすと“自分”がわからなくなってしまうのだ。そもそもこだわらねばならない自分なんてないのかもしれないけど。

ACIMワークのほうもしばらく休んでいた。今朝しばらくぶりでワークをした。東京でACIMを学んでいた自分の感じも、少し思い出した。心が落ち着きすっきりした。

80代ひとり暮らしの母のことが気にかかりながらも、一つ屋根の下に暮らす決心は持てないままという現状は今年も続きそう。

80代の母、iPad miniの練習をしYou Tubeにハマる

よかったのは、年末年始いっしょに母の歩行練習をしたりストレッチをしたりして、室内や安全な場所ならば100~200mくらい歩くのは問題ないことがわかったこと。母も「歩けるようになったね」と顔が晴れやかになった。

冬は雪があるから買物に出るのは難しいけれど、新たに生協に加入し、生協にないものは私が買いに行った。元々備えあれば憂いなしタイプの母は生協の注文量が半端なく、ひとり暮らしなのに冷蔵庫3台を稼働させ、冷凍肉魚や缶詰など今や丸一ヶ月籠れそうなくらいたっぷり備蓄がある。

それでもひとりで時間を持てあますのでは?と、母に買ったiPad miniに新しく音楽をダウンロードしたり電子書籍を買ってみたり、インターネットで検索するのを練習したり、You Tubeをいっしょに見たりした。

好奇心旺盛で美術や建築が好きな母はYou Tube上の建築や庭の動画に食いつき何時間でも見たがった。インターネットの検索の方は高齢者だからか、ネットに溢れる情報から、どこを見るべきかがイマイチわからず、広告などへんなところに引っ張られてしまうきらいがあるけれど、前よりもできるようになった。

「Wikipediaっていうのは、インターネット上にある百科事典で、みんなで自由に書いたり編集したりするらしいよ」と私が言うと、「じゃあ、私も書きたい」と言い、私をびっくりさせた。おいおい、見る方じゃなくて書く方なの?

私はネットやiPadに詳しい方ではないのだけど、母の要請に従ってあれやこれややることで新たに知ることも多く、「(母のように)やりたいことや好きなことがはっきりしている人って、強いな」と思った。

母のiPad miniと私のiPhone間で、Face Timeの練習もした。私が電話をauからmineoに替えたので母との通話料が高くなってしまったから。Face Timeならただだ。家の端と端でFace Timeの画面を覗きながら「元気にしてる?」と昔の糸電話みたいに話をした。

こうしたiPad miniの刺激がいつまでもつか、また母一人になってひとりで使いこなせるものかどうかわからない。2018年も各々ひとり暮らししつつ昨年より帰省の回数を増やして様子見を継続することにした。

2018年、幸せな時を紡ぎたい

母はやはり一緒に暮らしたいようだった。ただそれは私が「娘役」に徹し母に合わせているからだと思う。私の方は「実家は母の世界、ここに自分の時間と空間はない」と感じてしまう。どこか近くに私だけの部屋が持てればもっと近くにいられるかも、と思ったりもしたが、その分追加コストが必要になる。母にその必要性の意味は理解できないだろうし。

そもそもそれ以前に、今や限りなく無職に近いフリーランスの私。貯金の切り崩しで生きるにも限度がある。私はこの先どう稼ぐのか。

その場にいて働かなくてもネット上のしくみを利用した収入源を探したい。時間がかかるかもしれないけれど、少しづつでもなんかできないかな、と思う。

東京に戻ってほどなく母からFace Timeがかかってきていた。気づかなかったらしく不在着信になってしまっており、今度は私からかけたが、今度は母が取らなかった。固定電話をかけてそれから、お互いFace Timeの操作をして話した。

今はちゃんと使いこなせれば便利が道具がいろいろある。一瞬、母がえらく使いこなして、しょっちゅうFace Timeがかかってきていたら怖いな、と思ったけれど、こうして母とやりとりできる今は、有り難く幸せだ。今年のお正月もすばらしく幸せだった。

2018年も、イレギュラーなかたちでいいから、自分なりのハッピーを紡いでいきたい。

実家は新たな赦しの機会の宝庫

2018-01-02

お正月行事でフレッシュスタートする

故郷で母と二人の元旦。子どもの頃から馴染んだ味のお雑煮を食べて、ああ、お正月だな、としみじみ感じた。わが家は浄土宗で、毎年正月二日には、お寺さんが家にお経をあげに来られる。今日は尼さんの力強い澄んだ声のお経を聴きながら、心の中ではACIMの復習をしていた。心が清められた気がした。

お正月行事などいらないし別に平生のまんまでいいと思っていたけれど、神棚を掃除して仏壇も掃除して、新年の掛け軸をかけて花を活けてと昔からの方法でお正月を迎え、年のくぎりを意識できた。気持ちも一新できた。母がいるからできていることだが…。

瞑想中、声をかけてきた母にいらだつ

元日の夜、母が寝室に入ってから、自分が寝床にしている居間でひとりくつろぎ、瞑想ワークをしていた。

そこに、突然母が「まだ寝んがけ?」と声をかけてきて、中断した。

安心していたひとり時間が破られ、また、いらっとしてしまった。

実家には自分だけで安心して過ごせる時間と空間がないことが致命的だ。

せっかくひとりになれたと思っていたのに、なんで侵入してくるかな。

私は、自分の内に踏み込まれるのが大の苦手で、いったん気持ちが乱れるとなかなか収まらない。いったん腹を立てると、腹だったことに執着したくなってしまう。

でも、ワークを再開したら、次第に落ち着いてきた。

本当は瞑想中に声をかけられたからと言って、猫が毛を逆立てるみたいに怯えたり怒ったりすることじゃないだろう。

母が来たから→心が乱れ、いらだった

と思ったけど、そうではなくて、私が私の人生映画を作っているんだ、

私の中に攻撃的な気持ちがあるから→引き金となるゲンジツを作って怒っているだけなのだ。

私のゲンジツを作っているのは私の思考

そして、私の思いの裏には、「私の外はすべて敵」という前提の思い込みがあるのかもしれない、と思い当たった。その大前提の思考をもとに自分がゲンジツを作っている。

保守的な土地柄の故郷では、子どももいないバツイチ単身者の中年娘は肩身が狭い。

私の従妹の息子さんが結婚が決まったとか、私の同級生に孫ができるなどという話を聴いて、「ほんとはそういう年なんやね」とつぶやく母にどこかしら罪悪感を感じ、同時に責められているような気持ちになってしまう私。

申し訳ない、居場所がない。

この思いが先、なんだ。

そして、これはエゴの正当化だし、幻想だし、まちがっている!

これこそが、私が赦すべきことなんだな~と思った。

実家は赦しの機会の宝庫⁉

怒りはどんなことがあっても正当化されない。

私の心の内側には手つかずの怒りと罪悪感がまだいっぱいある。

故郷では閉じていた心のフタが刺激を受けてぱかぱかする。

心乱されていることすべてが、「神との分離」という誤解の、私バージョンの投影なんだ。

これは、新たな赦しのチャンスを与えてくれていること。

そういう意味では、実家は赦しのチャンスの宝庫かもしれない。

先のことはわからないけれど、気づいたらひとつずつ赦していこう。

そして、なるたけ、ACIMの源から離れないでいたい。