レッスン163-死は存在しない。神の子は自由である。

2017-11-29

ワークについて最後に書いたのは、いつだっけ?

もともと時々しか更新できていないACIMブログだけど、最後にワークについ書いたのはいつで、レッスン何?と思い、見たら、11月10日のレッスン162だった。

じゃあ、レッスン163からだ。

そして、このワークはいつやったのか、とノートを見てみたら、11月9、10、13~15日だった。ずいぶん時間をかけたみたいだけど、あまり「ちゃんとできた感」がないから、何日もやったものか。朝だけはできても、夜はできなかったり、その逆だったり…もあったみたいだ。

自分が大事に思っていると言っているわりには、「瑣末なこの世のこと」に時間を使ったり、夜は疲れたりして、できないまま日を過ごすことがけっこうある。そして、そんな日も楽しかったりする。

…できの悪い学習者だ。

でも、他に行くべきところも、もっと頑張ってやるべきこともない気がする。

だからできれば、この世に生きている間ずっとACIMから離れずに学び続けたいと思っている。

レッスン163-死は存在しない。神の子は自由である。

死は存在しない。神の子は自由である。

この主題概念は、私にとって最も響くものだ。

なぜなら、私は子どもの頃からずっと「死」が怖いと思ってきたから。

小さい頃母に「死ぬってどんなこと?」と聞いたのを覚えている。母の答えは「寝て明日がないこと!」。

「お母さん、怖くない?」と聞いたら「そんな馬鹿なことを考えている暇ない!」だった。

成長し死の概念を理解するにつれ、死への恐怖は大きくなった。「死」に人生の根っこを抑えられており、常に「死」を背負って生きていて、生は「死刑宣告」までのつかの間の猶予、だから楽しめ、試せ、どうせ朽ちるのだから。そう言われているような気がしていた。

それは今思うと、まさにエゴの主張そのままで、エゴの罠にきれいに嵌っていた。

最初に『神の使者』と『奇跡講座』に惹かれたのも、意識はしていなかったものの、もしかしたら、死の恐怖から救いあげてくれるのではないかと感じたからだろうか。

レッスン163の冒頭には、「死とは一つの概念であるが、しばしばそうとは認識されない多くの形をとる。(L163-1-1)」とある。そして、悲しみ、恐れ、不安、疑い、そして怒り、不信、信頼の欠如、さらには肉体にまつわる心配や羨望といったものまで、その概念に含めている。

つまり、神の子にとって本来身にありえないことのすべてが「死」という概念だと言う。そしてその概念を象徴するものが、やはりこの世での「肉体の死」だ。

レッスン163にもあるように「死はその人質となっているすべての生命を間違いなく奪いにやってくる。(L163-3-4)」とある。

しかし、後半では、死は全的ものだから、神も含めてすべての者が死ぬか、あるいは命あるものはけっして死なないか、どちから一つであると言う。死が存在するならば神の死もありうる、それが誤りならば死はありえない、と説く。

「神の死という概念はあまりにもばかげていて、狂人ですらそれを信じるのは難しい。なぜなら、それは神がかつて生きていたが、どういうわけか今は死滅してしまい、おそらくは神の存在を望まない者たちによって殺された、ということを示唆するからである。」(L163-7-1,2)

こうした概念や理屈がちゃんとわかったわけではないけれど、ACIMの立場、「神は死を作らなかった。だから、死がどんな形をとろうとも、それは幻想であるに違いない。」(L163-8-6,7,8)は心強い。

死の恐怖から逃れるためにACIMを学ぶというのは本末転倒、原因と結果を逆にしてしまっているけれど、人間が本質的に持つ死の恐怖がなくなったら、それだけでこの世は平和でハッピーな場になるような気がする。

ワークをして

私はなぜそうも死が怖いのか。

死の何がもっとも怖いのだろう。

改めて感じてみたら、

「自分が無になるように思えるから」という答えが浮かんできた。

「自分」への執着…

その執着している「自分」だと思っているものが、エゴなのだ。

私は人一倍、「私」というエゴへの執着が強い。だから、怖いのだ。

エゴが自分が消えてしまう恐怖で大暴れしているのだ。

エゴへの執着を解き放とうとするのが、ACIMの学びだ。

私のACIM学習の目標は、「私」という檻から本当の私を自由にすることでもあるのだと思った。