2017-11-27
ひとりが身に染みる
たった四日間の母の滞在だったけれど、その後やや調子を崩していた。
ふだんひとり暮らしの私にとっては同じ空間にずっと誰かがいるというだけでストレス、それが非日常のワクワク感と相まって、ずっとテンションが上がったままだった。
その上がってしまったテンションが母が帰った後もすぐには通常に戻らず、またようやく気が抜け出すと、上がった後の揺り戻しなのか、ぼーっとして動きづらかった。
そして、心の内では、短い期間だけれど母とずっといることで、この世の現実感をいつもよりぐっと強く感じ、同時にACIMの世界観が遠ざかっていた。
すがすがしい晴天の空、母を新幹線で見送った帰り道、この東京で私はひとりなのだなと強く感じたのだ。
みんなが大切にして紡いでいく家族というものを、私は作れなかった。老齢の母はいつまで元気でいてくれるだろうか。私はこの人生で何をやっていたんだろう、何やってるんだろう、といった思いがぐるぐるした。
人生とは、愛する人と出会い子どもをなして、愛する子どもを育て家族を作り、その中で笑ったり泣いたり、いい事もそうでない事もあって、老いていずれ子や孫に未来を託してこの世を去る、そうした営み。
それがまっとうな人生で、私はやっぱりできそこないじゃないか…
おりしも、季節はクリスマス商戦の真っただ中。クリスマスソングがやけに身にしみる。
ACIMはこの世からの隠れ蓑?
私はこの世の現実から遠ざかりたくて、ACIMをやっているのではないか。時々思うこの疑惑がまた湧いた。
私はこの世で幸福の証明とされているものは何一つ持っていない。ACIMやACIMワークはこの世の価値観から身を引きたい自分のための言い訳のようなもので、この世で「勝ち組」で「幸せ映え」するものさえ手にしていたら、ACIMを見向きもしなかったんじゃないか。そう思えた。
だけど、今ようやく、ひとりの時間に慣れて平常心?になってくると、
ACIMの見方こそがやはり正しいと思える。
この世の楽しいことも、もちろん、味わっていい。私たちには五感があり感情がある。日々の小さな、あるいは大きな出来事もある。それを感じないでいるというのは不自然だ。
だけど、それはそれ。真の意味でリアルではない。やはり、私たちが回り灯篭に映している映し絵のようなものにすぎないのだ。
おいしいものはおいしい。お母さんは愛しい。私は気兼ねなく旅行できるくらいのおカネのゆとりが欲しい。健康で若々しくいたい。
これらはぜんぶ本音だ。
だけど、私の根幹にはもうひとつの、本音というか真実がある。
God is.
神は在る(それ以外はない)。
そして、私は神が創造したままの私である。
これを思い出しながら、また中断してしまったワークを再開したいと思う。