2017年秋、母との時間

2017-11-22

母が来た

IMG_1509先週土曜から三泊で母が上京していた。先月『日曜美術館』で運慶展の特集をやっていたのを見て、ぜひ生で見たいと興味をもったのだ。

母は好みがはっきりしていてストライクゾーンが狭い。私はなんとか母を満足させたいと、好きそうな建築や庭のコースを考えランチの店を予約し、わが家でのメニューを考え…、と段取りしていた。

しかし、来る前に足を痛めそれが回復していないとかで、杖をついてやってきた母は、私が想像していたよりかなり重症で50m歩くのも辛そう。ゆっくりゆっくり普通の3倍位のスピードで杖を頼りに歩く。

よく来たな。私だったら直前でも取り止める、と思う。筋肉痛だと思っていたものが良くならないどころか悪化したのだと言うが…

何とかランチを予約してあったお寿司屋さんまでは辿り着いたものの、観光できる状況とも思えず、予定変更し、連日、前回の上京でもお世話になった整体の先生に予約を入れて診てもらった。

そんな状態でも、「運慶展」だけは行くと、日曜、上野公園の国立博物館まで行って大混雑のなか40分待ちの列に並んで、見てきた。好奇心が強いというか根性があるというか…。あと、お茶のお稽古に持っていく○○という和菓子のお土産を買わねばならない、と見栄をはりたいあたりは、まだまだ生命力があると安心した。

母は私とちがって外交的でおしゃべり好きで、朝目覚めた瞬間から夜眠りにつくまで口を閉じるということがまったくない。ほとんどは「○○という番組に出ていたあの○○の弟って誰やったっけ?」みたいな質問、「この器の色、料理に合わないね、もっと○○だったらいい」とみたいな意見と「どの駅降りるの?」という類の質問だ。

私は、母に優しくしたい、満足してもらいたい、と思う一方で、目先の質問攻め、意見攻めにはたちまち辟易してきて、「さあ」「知らん」「そうやね」と流してしまう。引きこもりの私には、人との会話は3時間くらいが限界なのだ。

かつて憎んでいた母が今、小さくなって目の前にいる

その昔母は156㎝の私より10㎝も背が高い、色白美人だった。頭が切れ店を仕切るキャリアウーマンであり、母は私にとっては「私にまちがいはない、言うとおりにしなさい」と叱る絶対的権力者だった。私は支配的暴力的な母が大きらいだった。

在る日いきなり勉強部屋に現れた母が、なぜかわめきながら雑巾で私の顔を何度も拭いた。三世帯家族でたまったストレスを子どもにぶつけたらしい。

その時私は「覚えてろ。いつか私が大人になり力関係が逆転したらぜったいにこの仕返ししてやる」と心に誓った。子ども時代の記憶はほとんどないけれど、その瞬間のことは覚えている。

その母が、私より小さくなり皺くちゃのおばあさんになり杖をつき、歩くのもままならない様子で目の前にいる。

ふと「盛者必衰」という四文字熟語を思い出した。母だけでない、この世で移り変わらないものはない。

この瞬間、自分が母を憎んだり恨んだりしていないことが救いだ。無意識ではわからないけれど、私が感知できるかぎりは憎しみは消えている。

逆に、とてもとても愛しいと思う。

それだけで、私の人生はWINだと思える。それだけ自分のなかで母の存在と母への感情が大きかった。

母はわが身の投影

もちろん、ACIMを学んだ今、母はわが身の投影だとわかる。他のことと同じ、幻影でありゆるすべきもの、手放すべきものだ。手放すからこそ、私自身が贖いゆるされる。

しかし、この母への思いは何だ。恨み、怒りはない。あるのは、愛しさと強烈な執着心だ。

憎んでいたのは、叱られ甘えられない、認められないことに対する反応だったのだと思う。50も半ばを過ぎた今、「認めてもらいたい」「褒めてもらいたい」と幼い頃出せなかった気持ちを溢れさせている自分がいる。

その甲斐あってか、今回の滞在で

「どこで食べるより、あんたが作ったものがおいしい」と母。料理下手な私は、おいしいと評判の鍋つゆやあえ物のペーストを買いこみ、それで鍋や茶わん蒸し、春菊の胡麻和えを作っただけなのだけど、それでもとってもうれしかった。

また一方で「あんたに子どもがいたらよかったんだけど」とつぶやく母に、「ごめん」と心の中で答えて肩を落とした。

母への執着心とACIM

母の滞在中ずっとおしゃべりしている母に、ACIMのワークのことも、その考えもすっかり忘れていた。

私がACIMワークが細々とでも続けていられるのは、ひとり暮らしの孤独からで、家族がいて家族との生活があったらその必要性すら感じないのかもしれない。

家族と住んでいたらACIMワークをやりたいと思っても、自分だけの時間とスペースを保つのもむずかしいだろう。

私はACIMワークを続けACIMを細々とだけど学んできたと思うけれど、母をゆるせてはいない。許せてはいると思う。が、それはACIMのいう赦しとは異なる。

感情の向きが憎しみ・恨みから愛しさへと逆になっただけで、手放すどころか、強い情と執着心をもって、幻影をリアルにしてしまっている。

いつかその母とも、この世での別れが来る。今はそういうことを想像できないし、したくない。

今の私はまさにエゴトラップに引っかかっているのだと思う。

私が赦されるのは、こうした母への執着を手放すからだ。それがACIMの学びだ、と思いながらも、今は感情の波に翻弄されている。

そして、もう少しだけ、その波に漂っていたいようにも思う。

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