2017-08-28
色えんぴつ画展覧会
去年から始めた月一度の色えんぴつ画講座、生徒及び先生の元からプロになった方々を含めた展覧会があって、私も下手ながら初めて二枚だけ出した。それをユング講座の仲間に付き合ってもらって、昨日一緒に見にいった。
数年前までは生徒数も少なかったらしいけど今はかなり増え、100人以上の生徒が出品していた。自由画だから、風景画あり、静物画あり、人物画あり…で、何を描くかはそれぞれ。それが、おもしろいな、と思った。
私は、家にあった猫のぬいぐるみ、二匹。
講座中、展覧会用の絵を描く時間があったのだけれど何を描くか決まっていなくて、出がけに家にあったぬいぐるみをひっつかんで行ったら、「その題材、おもしろいですね」と先生に言われ、そのままそれにした。
なりゆきで始めた色えんぴつ画だけど、色を塗っているときは無心になれる。またいつも「趣味は…?」と聞かれた時、返答に困っていたけど、この講座に通い始めてからは「色えんぴつ画です」と言えるのが、助かっている。
帰りに付き合ってくれたユング講座の仲間といろいろとおしゃべりできたのが、楽しかった。ひとりでいる時間が長く人と話すのが下手になっている…私。おしゃべりはひとりではできない。私は、人と話すことに飢えているのかもしれない。
レッスン140-救済だけが治癒をもたらすものと言える。
レッスン140は先週水曜にやったワーク。
レッスン136、137同様、病いと癒し、治癒に関連する概念を扱っている。
この世の治療法は「病気」という幻想を「治った」という幻想に変えるだけのもので、病気という幻想の原因である心を治癒するものではない。
ACIMの救済=贖罪だけが治癒をもたらすのだという。
「罪悪感がないところで病気が生じることはありえない。病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。病人を癒すことは治癒ではないので、贖罪は病人を癒さない。病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。そしてそれがまさしく治癒である。」と。
なるほど。と思う。
私たちが神から分離したのだと思うがゆえに意識下に抱く罪悪感や恐怖を身体に投影したもの、それが病気だ。
もちろん、本人はそんな意識はない。だけど、今世のなかのどこかで自分が罪悪感を抱いたり恐れたりしたことが、心に認められず身体に現れたもの―それが病いなのだ。
病気は真理を見ようとしないことからもたらされる。真理の下では病気は存在しえない。
「幻想を真理のもとへもっていく心だけが、真に変わることができる。これ以外に変化というものはない。」
「今日、私たちは病気の源について、私たちの心を変えることを目指す。」
「だから、私たちは護符や呪い、魔法の呪文や丸薬など、あらゆる形の魔術的なものを脇に置く。そして、静かにして、癒しの声が聞こえるように耳を澄ます。」
ワークをして
病気が、罪悪感や恐怖、偽りの信念を身体に投影したものだという説明は、よく理解できる。今そんな気はなくても、もしかしたら生まれる時に自分で選んできたのかもしれない、そうしたことを含めて、病気はすべて自己決定なのだ。
エゴは私たちに「おまえは罪人だ、神に罰せられるだろう」とささやく。それがしごく尤もに感じる。ならば病気にくらいなるのが当然のようにと思う。
自分がだれかを攻撃したい気持ちがあるけれど、それを認めたくない時、自分が「病人」という被害者になりながら、そのだれかを巻き込むことだってある。
病気を生むのは無意識からだけど、自分の心のあり方が作っているのだから、本当に癒すには、自分の心を変えなければならない。
レッスン140の説明にあるとおり、「聖性が存在しない場所はなく、罪や病気が住みつくことのできる場所はどこにもない。」と。
ACIMを学んでよかったことの一つは、病気は必然ではない。また必要なものではない、と知ったことだ。
私は、ずっと病気になるのが怖かった。とくに、がんを恐れていた。書店や電車内でもその文字の並びに反応する。それはやはり自分は罪ある身でいずれその罰として病気を受けるのが報いだ、という思考がどこかにあったからにちがいない。
そして、実際にそのとおりの病気になった(しかし、幸いなことに症状がなく進行もほとんど見られない)。
未来は自己予言に基づくシナリオのようなものなのかもしれない。
でも、今や、病気には根拠がないことを学んだ。だから、心は晴れやかだ。
本ワークでも、私は自分自身に贖いを受け入れた。救済により、病気を治癒したいと思う。
アファメーション
病いは必要ない。私は贖われた。