2017-08-04
レッスン134-私が赦しをありのままに知覚できますように。
ここ最近、あれ、これは秋風?と思うような風を感じるけど、勘ちがいなんだろうな。蒸し暑さはこれから、、なんだろう。暑さのスパンが長すぎて、夏がわからない。。
レッスン134では、「赦し」の概念が見直されている。「赦し」は、ACIMワークブックの練習の中核だ。「赦し」の概念は「わかった」と思っても、それをこの世で実行して習得するまでは、本当にわかったとは言えない。
ACIMでいう「赦し」と世間一般でいう「許し」は、まったく違う概念だが、それはその前提になっている見方がまったく違うからだ。
許し | 赦し | |
世界観 | 世界はある | 世界はない |
神との関係 | 神と分離 | 神とひとつ |
私たちの性質 | 罪が在る | 無辜(無罪性) |
不快な、許しがたい出来事 | 実在 | 実在しない |
この世でいう許しは、「あなたは本当にひどいことをしたけど、大目に見て許してしんぜよう」というものだけど、ACIMでいう赦しは、「そもそもわが同胞は何もしていないし、本当は何も起ってはいない、そこのところを見抜いて感情を水に流そう」というもの。
そもそも私たちはエゴが呈する夢を見ているのであり、これは怖い夢を手放すための絶好のチャンス。その気づきに用いて夢から覚め天国にいることに気づこう、というのが、この『奇跡講座(ACIM)』の根幹だ(と思う)。
で、レッスン134では、「兄弟をひとりを選び、心に思い浮かぶままに彼の『罪』を一つずつ並べていく。」
そして、その人が行った行為を見て「『私はこれと同じことをする自分を責めたいだろうか』と自問する。」
その同胞はいわば、自分自身が無意識で「罪」だと感じていることを、この世で見せてくれている鏡に映る自分だ。その人が「した」と思っていることを自分の側から見直して、彼、彼女の「罪」を自分に引き取る、というのが今回のワークだ。
ワークをして
このワークを数回したけれど、その中で対象として選んだのは「元夫」だった。何度も赦しのワークに登場させているが、思い出すとまだ切なさや悔しさが思い出された。
振り返ってみれば、彼には私の方が先にもっとひどいことをしていた。
その「仕返し」だったとしたら、ちょうど見合うか、まだ私が負っているか、という具合だ。
いやいや、そうではない。この、世界はない。だ。
したがって、実は二人の間にも何もない。ただこの世で学ぶ「ソウルメイト」というだけ。他の兄弟姉妹と同じく向けるべきは、愛と感謝だけだ。
このレッスン134の一回目のワークの時も、彼に対象となってもらった。好きな人だったから、その分いろんな出来事や執着心もあり、いろいろ赦しの材料がたくさんあったのだ。
* * *
今も日常生活で赦しが必要とする場面に直面すると、この幻想の世の圧倒的なリアル感に騙されて、気づくと巻き込まれパニックになってしまう。直面しているその瞬間は、赦すのが嫌なんだ。相手やその状況を責め立てたくなる。悪いのは自分じゃない、と思いたいんだ。
でも、その状況も、相手も実はいない。そもそも諸行無常、夢の中の出来事なのだ。それをその瞬間に思い出せるか、どうか。その瞬間ではなくても、数秒後、数十分後、数時間後、あるいは数日後、思い出せるか。そして、理論、すなわち赦しの有用性はわかっているはず。
だから、赦せるかどうか。理論は知っている、と思うだけではだめなんだ。心から赦し、平和な気持ちになれなければ。
2013年からワークを始めているけど、未だ、だめだめな私。赦すどころか、こじらすことも。。。
だけど、赦さなければ進まない。少しずつでも、その機会が来たら、赦そう、と思う。
何だって、自分のため。自分が神さまと近づくためなのだから。
アファメーション
私が赦しの機会を逃しませんように。