2017-07-17
レッスン127-神の愛のほかに愛はない。
レッスン127では、真の愛とこの世で「愛」と呼ばれるものとは異なるという説明が書かれている。
この世での愛は、ある人は愛し別の人は愛さないということが当然にありうる。また、同じ人に対しても、ある時は愛するが別のある時には愛さない、という変化がありうる。
ACIMではこうした心を愛とは言わない。
この世で愛と呼ぶものは、ACIMで「特別の愛」と言われる特定の人に対する思いだったり、執着だったりする。その多くは条件つきの「愛」だ。
こうしたものはACIMでいう愛ではない。
ACIMの愛は恒常的で全方向に向けられており、次のように説明されている。
「愛には裁くことはできない。それは、それ自体が一なるものなので、すべてを一なるものとして見る。愛の意味はその単一性の中にある。そしてそれを偏愛や分割された愛として思い描く心にとって、真の愛は捉えがたい。」
「神の愛のほかに愛はなく、愛はすべて神の愛である。」
「愛の意味はあなた自身の意味であり、神ご自身と共有されている。」
『神の使者』にはパーサの発言として、
「でも思い出して。J(イエス)は両親を―石工のヨゼフとセッフォリスのアリアを―愛していたけど、ほかの人たちも同じように愛したのよ。特別の愛は個別、具体的だけど、聖霊はすべての人を平等に愛しているの。」(p177)とある、
こうした真の愛は、この世で探すことができるものではなく、逆にこの世の価値観から自由になることによって見えてくるという。だから、レッスン127では
「あなたの真の自己を見つけようとして、この世の中を探すのはやめなさい。愛は、闇と死の中には見つからない。」とする。
そして自分の心のうちに、歪められることなく保たれている部分があり、そこを通して神との関係を結び直すことが真の愛を思い出すことだ、として、心を開きこの世の法則を抜け出すワークをする。
ここ何回かのワークは、文言やアプローチを変えながらも、この世が前提としている原理原則から離れ、内なるホーリースピリットに耳を傾ける練習をしている。
それによって、埋もれさせている真の自己を思い出そうとする。
ワークををして
私は、いまだACIMでいう「愛」がわかるようなわからないような…。
この世での「恋しい」「愛しい」「好き」「ありがとう」は経験がありわかるけど、それは愛なのかな、特別の愛やエゴの執着かもしれないと思う。
愛…がわかっているのかな。かすかにでも進歩はあるんだろうか。
私たちは、エゴというまちがった心に依拠する世界に住んでいる。そこに真の幸せにいたる道はない。この世界に敵対するのではなく、透明なシートを重ねるがごとく、ホーリースピリットに従って生きる別のレイヤーを作らなくては。それがACIMワークがくりかえし導いてくれていることだと思う。
この世で神の教えをじゃまする最もわかりやすいものは、「プライド」ではないかな。
プライド=エゴ
それは特に近代人にとってとても大事なもので、自分が傷つけられうると教え、「やられたら、やり返せ」「やられる前に、やり返せ」と教える。
その教えは一見正しく思えるけれど、偽の自己にしがみついているだけ。偽自己には正体がない。幻だ。
愛=神
その一点にすべてが集約される。
わかる。と思う。
でもむずかしい。
レベルというものはない。
でも、今の私にはすごくレベルが高く思え、はるかかなたに感じる。
ACIMは、理屈を学ぶだけで実践されなければ、無用の長物だ。私も、ACIMの理論のかげに隠れて偽自己を守るのではなく、もっとオープンマインドに平和になり、わかちあいたい。
このワークの中でも、自分のホーリースピリットを感じてみようと試みていた。心を静めると、自分の中にも、深いところに変わることのない本来の私がいると思える。
アファメーション
こころの奥の、本来の自分のかんじ。