レッスン126-私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。
2017-07-14
ユング講座
一昨日は月に一度のユング心理学講座だった。
ユング講座の先生は、ACIMの学習者ではないけれど、私がACIMを勉強していることを知っておられる。そこで講座中にみんなの前で「勉強の方はどう?」と聞かれ、それに答えるかたちで少しこのワークのことを話すことができた。
ACIMの内容を説明することはできなかったけれど、私が大事に思って何年も勉強しているものがあること、それをこのゲンジツの世との間の葛藤はあるものの、素晴らしいと思いこれからの人生学び続けていきたいと思っていることをおしゃべりした。
たったそれだけのことだけど、少し心が軽くなり満たされたように思う。
私はACIMを究極の智恵だと思う一方で、ACIMがあまりにも世の中の考えとはかけ離れていることにどうも萎縮というか緊張しているところがあるのだ。
ACIMは実践されなければ「無用の長物」だ。私はできれば実践し、さらにわかりやすく発信もしたい。それが今後の人生のテーマ…のつもり。
レッスン126-私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。
私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。
だから、私たちが赦すとき、赦しているのはこの私たちだ。なぜなら、自分の向こうには実は誰もいないから。
私たちは、私が目の前にして感情を動かすその人と別個に存在しているのではない。その人は自分の中にあるイメージを投影して見ているにすぎず、いわば自分の片われ。
与える者と受け取る者は同一である。これを理解しようというのが、レッスン126のテーマだ(と思う)。
レッスン126ではACIMワークの中心概念である「赦し」とこの世での「許し」を対比させるかたちで説明しているが、
「許し」に対する視点は以下に代表されるように、鋭くきびしい。
「あなたがこのようなやり方で罪を『赦す』とき、あなた自身に直接に益となるものは何もない。あなたはただ、自分が赦す相手よりも自分のようが善良で、より高い位置にいることを示すために、慈悲に値しない相手に慈悲を与えるだけである。」
この世の許しは、罪を犯した者に上からの立場で与えられる慈善的きまぐれだと言い、さまざまな言い回しでそれが、自分の赦しにはつながらないことを説明している。
ACIMの赦しはまったくことなる。
私たちが心の内に持つ無意識の罪。それを否認するがため自分以外の人に見える。その他者が自分にとって許しがたい不本意な行為をしているように見える。それを、現実ではない、それは投影にすぎないと見抜いて手放すこと。それが赦しだ。
だから赦されて解放されるのは、赦した者自身の心なのだ。
「私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。これが真理であることを学ぶのに必要な助けは、今、私とともにある。私は聖霊を信頼する。」
世間一般で言う許しと、ACIMの赦しの概念の別を確認し、心の中の正しい部分であるホーリースピリットの導きによって、正しい赦しを定着させるのが本ワークの目的だと思う。
ワークをして
私は、赦しの概念はだいたい理解できているのではないかと思っている。
でも、それをこのゲンジツの中でどう行動すればいいのか、あるいは幻想なのだから行動もしないのかがイマイチよくわからない。
たとえば5日北朝鮮の金正恩氏が弾道ミサイルを発射したというニュースがあったけど、こういったゲンジツに直面して「赦す」とは?
心の中でこれはリアルではない。「彼がしなかったことについて赦す」と思う。ただそれだけでOKなんだろうか。
その後はただ受身でいいのか。
そこのところがよくわからない。
たとえば震災のとき、たとえば自分が事故に巻き込まれたとき、まずは私の心の中のこと。その中で赦すとして…ゲンジツでの行動はどうしたらいいんだろう。
ゲンジツでは係争中で、心の中で赦すなんて場合もありうるんだろうか。
ともかく当面は、、私の映画のスクリーンに映るものはなるたけ赦すことに努めようと思う。
実はすごくささいなことでも、くりかえし思い出して、赦せてないことがある。まずはそういう思いが浮かんだ時、その都度、赦しを実践することかな。
アファメーション
赦しのチャンスはありがたい。