2017-06-30
都議選直前
都議選が明後日に迫り、外の選挙カーは必死に名前を連呼して「お願い」「よろしく」と通っていく。
これって騒音っぽくてみんなの生産性を落としているだけのようにも感じるけれど、名前連呼の効果っていうのもやっぱりあるのかな。
築地市場の問題はこの都議選にどの程度関係しているかな。小池さん率いる都民ファーストの会は、どの程度議席を獲得するだろうか。
都議選については、友人知人から自民党、公明党2候補に投票を頼まれた。けれど私自身は本当は「だれ」が望ましいと思っているのか、よくわからない。投票するつもりではあるけど、未だ定まらず。
レッスン121-赦しが幸せへの鍵である。
また新しいフェイズに入る。レッスン121ではACIMの最も基本的な概念である「赦し」について、「赦しが幸せへの鍵である」という概念を深める。
これは、「赦しこそが幸せへの鍵である」と言い換えた方がわかりやすい気もする。
赦し…
すわなち、この世の幻想性を認めて、手放すこと。
この世のゲンジツはここにいる私にとってはもちろん現実的なことだけど、実は映画のように幻影を見ているだけ、それも神からの分離という幻影。それは実際には「起ってはいない」。自分の罪悪感と恐怖がときに無意識から浮かび上がって、怖く辛い映像を見せる。
その時、現実ではないのだと認めゆるす。それによって、神と私たちを隔てていたかに見える雲が取り払われて、ずっと在った神が見えてくる。
レッスン121には、「赦しは習得されるものである。」とある。車の運転や料理や水泳のように身につけるものだ。
それを内なる教師であり、本来の自分であるホーリースピリットの導きによって学んでいく。
レッスン121は赦す練習で、長いほうの練習は、
①自分が嫌ったりネガティブな感情を抱いている「敵」と「友」を選び、
②敵視している人のどこかに光を感じる
③光を広げる
④友にその光を移し、その人に友以上の存在を感じる
⑤光を自分に与えてもらう
⑥「敵」と「友」を一つにする
⑦彼らに祝福してもらい彼らと一つになる
⑧これにより自分自身によって赦された
…大まかにいえばこのようなプロセスによってワークをする。
レッスン121は一日を通して赦しが果たす役割を忘れないため「1時間ごとに、次のように自分に教えなさい。」と次のような文言で締めくくられている。
「赦しこそが幸せへの道である。私は、自分が死にゆく者、誤りを免れない者、罪深い者だという夢から目覚め、自分が完璧な神の子であるとわかるようになるだろう。」
ワークをして
2日間何回かワークをした。対象を決めずにワークをしたなかで「敵」の役に「妹」のイメージが出てきた。
妹は7歳も年下ということもあって、ずっと「かわいい」としか思ってこなかった。もちろん今もかわいい、愛おしい唯一のきょうだいだ。
だけど何年か前たまたま帰省のタイミングが一緒になった時、母親に激しく怒りをぶつけている姿を見て、怖ろしくなり、それから妙にキンチョーするようになってしまった。それでこのワークの対象となった。
ワークをしてみて気づいたのは、妹が母に怒りをぶつけている姿は、
強大な母に怒り憎しみを抱いていた過去の自分を呼び起こしていたのだということに気づいた。
幼かった私は怖ろしいと思っていた母に反発しながらもただ感情を閉ざすばかりで怒りを表現することができなかった。次女の妹はそれができる。
だから大人になった今、まだ反抗心をむき出しにしている妹に、何を甘えているんだ、老いた母に…と思う反面うらやましくもあったのだ。
そして、母を攻撃する妹の姿は、もう一つ、妹や妹に代表される年下の者から非難され攻撃される自分というイメージを呼び起こしていた。母にぶつけるその怒りは私に対してもあるだろう、と。
だから、大人になった妹は葛藤を呼び起こす存在であり、だからどこかしらキンチョーがあるのだと思い当たった。
つまり、私は妹に表現されなかった自分を見ていた。親を責める子と子から責められる親の両方を見ていた。
彼女は私だ。
ワークをしてその正体がわかった。
このイメージはとりもなおさず、「親なる神との分離」のイメージではないのか。自分が親から離れたのを、親がダメだからだと責める「結果」をこの世に作っていたのではないか。
イメージは、まだ手放せていない感情のしこりというだけであって、本当のことではないから、そこにしがみついてその感情を育ててリアルにしてさらに大きくしてしまうのは望まないことだ。
それで手放すようにした。
このイメージは私にとっては深いものだと思うから、何度も赦すことが必要かもしれない。
アファメーション
私が出会うすべての人は、私。その私を赦して慈しむことを思いだそう。