2017-06-26
復習Ⅲ修了へ
ようやく復習Ⅲの最後。レッスン120は法事帰省前の6月15日、16日にやったもの。
私は、30分に一度主題概念を数秒でもいいから練習するという、この復習Ⅲのワーク形態が苦手で、すぐ忘れてしまい、なかなか先に進めなかった。
さらに帰省中も帰省後もワークはあまり進んでいないけど、ゆっくりでいい、ただ離れてしまわないようにしようと思う。
ワークブックの英語の原文にあたることをあきらめれば、もっと楽に早く進めることができそうだけど、せっかくあるのだからと思うと、どうも気になり、、、結果、英文読解にかなりエネルギーを取られてしまい、英語の勉強だかACIMの習得なのかわからなくなってしまっている。
でも、この人生で自分の軸となるもの(今はそう思っている)を見つけられた私は、なんて幸せなんだろう。
ACIMのおかげで、前より心安らかになった。かつては「出口がわからなかった」けれど、今はここから見たら針の穴ほどの小さな穴でそこへの道のりは遠いのかもしれないけれど、「出口はある」のだ。
自分が人生において被害者や加害者ではないと知るだけでも、私がACIMから得たものは大きい。
レッスン120-レッスン109、110の復習
l109)私は神の内に休らう。
今日、私は神の内に休らう。そして、私が神の内なる静けさと完璧な確かさの中で安らっている間、神が私の中で、私を通して働くに任せる。
l110)私は神が創造したままの私である。
私は神の子である。私は今日、自分についてのすべての病んだ幻想を脇に置き、私が本当は誰なのかを、父に教えてもらう。
ワークをして
このワークにかぎらないのだけど、ワークをして感じたのは、私の「批判ぐせ」だ。
何かしら、自分に不都合だったり不愉快なことがありそうになると、自分ではない誰かのせいにする気まんまんの姿勢でいる、ということに気づく。
あんなっことがあったから → こうなった
あのせいで → ひどい目に
つまり被害者のポジションになり、そして隙あらば「正当な理由」によって「防衛」を試みる。
全部がそもそも要らないことだ。
私が神が創造したままの私で、今なお神の内に在るならば、
苦しむ必要も、害を被る必要もないはず。
私たちの身体は、意識、無意識にかかわらず私たちが抱いている批判や不満、罪悪感の行き場を求め出口を探し、その攻撃性は病いや苦痛を生み出すけれども、その必要もない。
レッスン110の文中の文言
「私は神が創造したままの私である。
神の子が苦しむことはありえない。
そして私は確かに神の子である。」
の宣言どおりに生きられたら!!
アファメーション
今ここにこうしている私。この私は祝福されている。