レッスン116-レッスン101、102の復習

2017-06-10

昨日までの三日間ACIMワークから完全に離れ、ある会社向けのプレゼン資料づくりに寝食削り没頭していた。それはそれでゲーム感覚で楽しかった。夕方プレゼン終了後疲れと爽快感からくる心地よさを感じた。こういう感覚は久しぶりだった。

…、たった3日なのにACIMの感覚が遠くなっていて、びっくりした。

また、のれんをくぐって「よろしく」と改めて中に入る感じだ。ダイアリーを書き終わったら思い出せていると思う。

レッスン116-レッスン101、102の復習

l101)神の意志が私に望むのは、完全な幸せである。

 神の意志、私の完全な幸せである。私が苦しむことがあるとしたら、それは唯一、神の意志とは違った別の意志があると信じているからである。

l102)私に幸せを望む神の意志を、私も共有している

 神の子である私に対する父の意志を、私も共有している。父が私に与えたものが、私の浴するすべてである。父が私に与えてくれたものが、実在するすべてである。

ワークをして

前にも何度も書いているのかもしれないけど、昔は(私の悪事をすべて知っている)神が怖かった。レッスン101の本文に書かれているとおり、人生のどこにいようともいつかのタイミングで見つけられ、私の番として罰せられる。そう思っていた。今も少し思っている。

その典型的なものが、老い・病気→死だ。

ただ、今は、「神は私に幸福だけを望んでいる」という文言が前より信じられるようになった。

私たちはこの世で苦しむ必要はいっさいない。

私たちはみな幸せであっていい。

いや、完全に幸せであることこそ神が私たちに望んでいることであり、

神とは完全なる幸せそのものだ。私たちはそこから生まれ、今なおその一部だ。

ただ、それをリアルに感じられるためには、幻想を幻想として、見抜き赦さなければならない。

この習得は、やっぱり理屈というより練習なんだろう。

泳ぎをマスターするように、顔を水につけバタ足をして息継ぎを覚えて…といった具合に赦しも習慣化して身につけていくことだ。

小林麻央さん

このところ、小林麻央さんのブログを拝見している。食事ができなくて痩せ細った姿を気丈にもブログに載せておられる。当然ながらのすっぴんのお顔が美しいと思う。

ワークのミニ瞑想をしていても気になっているのか彼女のイメージがでてきた。

ACIMでは病んでいようと健康であろうと肉体はただの夢、実相は変わらないという。苦痛は肉体的な機能ではなく無意識で自らが自らを攻撃したり、自分自身を憎んだり罪悪感を抱いたりした「結果」だという。

そうはいっても…。いや、そうだとしても…。

毎日、今日は更新はあるかと見てしまう。それは私が彼女の病に囚われてしまっているからかもしれない。

それで、彼女の病気を赦した。

そして「罪と恐怖のシンボルにはならないでください。幸せと癒しのシンボルであってください」とメッセージを送った。

だれか他の人の病であっても、それを目にしているのが自分なら、それは助けを求める自分の内なる声だ。それを癒すことだ。癒しと赦しは同じものだ。

それで、私が見ている彼女の病気のイメージを赦し、手放した。

人間はいずれ肉体を離れるとしても、病気になることも老いて苦しまなければならないこともない。

罪悪感がなれければ苦しむことはできない。

神と一体である私たちには罪はなく、あるのは完全な幸せだけである。

アファメーション

幸せであることは神の意志を生きること。