2017-06-03
雑談できる友のありがたさ
まだ梅雨入り前なのだけど、梅雨が明け本格的な夏が到来したかのように錯覚する強い日差し。紫外線がことさら気になる思秋期だ。
昨日は久しびりに友だちと会って、新宿の東郷青児 美術館で開催されていた「ランス美術館展」(フランスにあるランス美術館のコレクションをご紹介する展覧会)と、自由が丘で開催されていた「柳本浩市展」(46歳の若さで昨年急逝されたデザイナー、ディレクター柳本さんの追悼展)に行ってきた。
芸術的刺激もよかったが、何より老いていく親のことや自分自身の健康など、50代の定番とも言えるおしゃべりができて楽しかった。ネット化が進んで仕事でもプライベートでも直接会うということが減って久しい。フリーランスでひとり暮らしの私にとっては、こうした雑談ができる友とその機会というのはほんとうに貴重だ。
そのことを夫婦で暮らしている友だちには言えなかったけど、目的がないとりとめのないおしゃべりができる関係というのはしみじみありがたいと思った。
ひとりはいいけどひとりでいすぎるのは…。私が年を重ねますます内向的になっている自分のライフスタイル、やはりどうにかすべきかも、という反省も感じた。
レッスン114-レッスン97、98の復習
l97)私は霊である。
私は神の子である。肉体は、私の霊を封じ込めることはできず、神が創造していない制限を私に課すこともできない。
l98)私は神の救済計画における自分の役割を引き受ける。
神は私を、永遠に変わることのない私として創造したのだから、その神の言葉を受け入れること以外に、私にどんな機能(はたらき)があるだろうか。
ワークをして
先週の金曜、土曜にやったワークだ(やっと少しだけどワークとダイアリーが縮まった)。思ったのは次のようなこと。
私が霊なら、他の人も霊だ。
どこで読んだか忘れたけれど、私たちの肉体は霊をくるむ肉の毛布みたいなもの、という表現を思い出した。それはあたかも、スヌーピーのライナスがいつも持ち歩いている毛布みたいなものだ。
この男の子の名前を確認するのにネット検索したら、その毛布のことを「安心毛布(security blanket)」と言うそうだ。安心毛布は「人が物などに執着している状態を指す」ともあった。
私たちの肉体もまさにこれなんだ。肉毛布。
もちろんここに生きている以上、肉毛布は必要だけれど(ないと幽霊になるのか?)、人と接するときはなるたけ肉毛布をやり過ごして、同じ神の子という本質と意識しようと思った。
そして、「神の救済計画における自分の役割を引き受ける」ことについては、私の役割はまず赦すこと、愛すること。
それ以外にこの現世での役割は何か。
やはり、
ACIMとこの世をつなぐこと、と
ACIMをわかりやすく伝えること、
という2つが思い浮かんだ。
これまで経営のお手伝い的な仕事をして生計を立てていたけれど、できたらいずれ、何らかACIMのことをしごとにしたいと思う。
でも、それはすなわちACIMに関する何かをしておカネを稼ぐということ?と思うと、具体的なイメージが想像ができずそこでおしまいとなった。
夜のワークでは、この学習ブログはコースを歩むストックみたいな役割として役だっているけど、「だれかに何かを伝えるもの」にはなっていない。ACIMをまったく知らない人向けのブログがあってもいいのかもなぁ、と思った。
それはまだ先のお話なのかもしれないけど。
アファメーション
人を、肉毛布をやり過ごして、霊として感じてみよう。