2017-06-01
紫陽花
お~、6月に入った。
朝の散歩道に咲く紫陽花のうすむらさきいろに癒しを感じる。紫陽花というのは、咲くまでは存在感がない。梅雨の季節に咲いて初めてそこに紫陽花が植わっていたのだと気づく。
紫陽花というのは咲いてないときはどうしているのかな~と、50も半ばになってから子どもっぽい疑問が湧いた。それで今年の冬、意識して紫陽花を見てみたら、からっからに枯れた木の枝から小さな緑の芽が出ていた。それが次第に葉っぱとなり春にはどんどん緑を増やしていった。
あたりまえだけど花をつけるまでも他の植物と同じように、春に芽が出て成長して秋には枯れて…というサイクルをくりかえしていた。
ほう、とちょっぴり感動した。
紫陽花は色がいい。ピンクから紫、青としっとり控えめな色味で、花々のグラデーションも美しい。小さな花を覗くと、花びらと真ん中の取り合わせもなかなかいい。今、調べてみたら、花びらだと思ったものはがくで、真ん中の小さいのが花そのものみたい。
この6月は紫陽花をみよう、とふと思う。
レッスン113-レッスン95、96の復習
l95)私は創造主と一体の一なる自己である。
私は一なる自己であり、完全に全一で、被造物のすべてとも、神ともひとつであるから、安らかな静けさと完璧な平安が私のものである。
l96)救済は私の一なる自己から訪れる。
一なる自己の智識は今も私の心の中にとどまっており、その自己のもとから見れば、私のための神の完璧な救済計画が完璧に成就されていることがわかる。
ワークをして
ワークをしたのが5月12日。もう半月以上前のふりかえりということになる。
この95、96のワークでは神と一体の「一なる自己」にフォーカスが当たっている。
改めて本文を読んでみると、
「あなたが見ている自分自身は、神の被造物を模倣した滑稽な紛いものである。すなわち、弱く、意地悪く、醜く、罪深く、哀れで、苦痛にさいなまれるものである。それが、あなたが自分で作り出したあなたである。」と、
神から分離したと思いこんだ私たちがエゴの主導のもと作り出した私たちの自己像が描かれている。
そして、それは間違いだから「あらん限りの確信を抱いて」以下のように唱えて手放すようにと強く命じている。
「私は一なる自己である。創造主とも、被造物とも、被造物のあらゆる側面ともひとつである自己、無限なる平安と力がみなぎる一なる自己である。」(レッスン95)
レッスン96では、本来私たちは一なる自己のはずなのに、幻想の自分(エゴ)と本来の自己(ホーリースピリット)が共存しているため、私たちは常に葛藤にさらされていると説明されている。
それは同じテーブルの上での葛藤ではない。一方は真理であり、一方は幻想―ないものだから。私たちはその両方を握ったままでは真に救われることはない。
幻想を手放さなければ真理は得られず、真の愛、幸福、穏やかさ、喜びの状態になることはない。
そうはいってもなかなか…
ここに住んでいる以上、ここでの諸々があるし…。
理屈はわかるようになりつつあるけど、それを日々の暮らしのなかでどう生きるか(応用編?)、いま一つ会得できていない。
私のワークの感想メモには、
「心は身体より大きい(あたりまえだけど)。
それが身体をやぶって躍動したがっている感じ。」
とあった。
とにかくACIMは習得系なのだから、筋トレや水泳と同じ、コツコツやるしかない。しばらく離れて忘れたら、またそこから再びやるしかない。
どうしても、この世でいいことばかり起ってほしい、と思うけど、嫌なことや理不尽なことが起こった負荷がかかった時こそが、力をつけるチャンスなんだよな。わかっているけど…。
アファメーション
ACIMは筋トレ。こつこつ続けるが肝要。