「この世は幻想」にフォーカスするのではなく…

2017-05-25

「この世は幻想」というワナ

気づけば5月も残りわずかに。

そして気づいたら、ACIMワークが5月12日のレッスン113を最後に止まり、すでに12日も経っている。12日夕方に母がひとりで暮らす富山に帰省して、すっかりACIMとは別世界に行ってしまい、東京に戻ってからも慌ただしくしていて、止めたお皿を再回転できていなかった。

復習Ⅲに入って、起きている間毎時0分と30分に主題概念を復習する、というきまりを重たく感じていて、無意識に再開したくなかったのかもしれない。

思えば、ACIMワークから離れていた時間、解放感も感じていたし楽しかった。

ワークをしているなかで、私はどうも「この世は幻想」という思いが強すぎて、なんでも「どうせ幻想なのだから」とやり過ごして現世に興味が薄れつつあった。母は美術や歴史、そしてジャイアンツが好きで、帰省中もいろいろ私に話しかけてきたが、そうしたものに対しても「幻想だし」という冷めた思いがあった。

だけど、それはACIMの主眼とするところではない。

ゲイリー・R・レナードさんの3冊目の本『愛は誰も忘れていない』にも、アサンディッドマスター、パーサの発言として「何かに取り組もうとするとき、つい人生は幻想だという点に焦点を当ててしまいがちになるけど、焦点を当てるべきはそこではないわ。」(初版、p33)とある。

そして「なぜって、他者を見るように自分自身を見るというのはほんとうで、人々や世界を幻想ととらえて人生を歩めば、次第に無意識下で自分自身のことも幻想と考えるようになってしまうから。そうすると虚無感を覚えたり、無意味に感じて落ち込んだ状態になるわ。無意識では、他者についての思いは、あなた自身についてのメッセージに置き換わることを忘れないで」と続く。

これは私が陥りつつあったことかも。

他者を完全無欠な存在とみる

それが生命力と好奇心旺盛な母の刺激によっていい意味で崩れた。そしてそのままマイACIMプロジェクトからも離れてしまっていた。

同著では、「さあ、かかわる人を時空の小さな枠に入れて制限する代わりに、身体を見すごして、Jがしたことをやりましょう。その人を限界のない存在として考えたいわ。

他者について考えるとき何かの一部としてではなく、完全な存在だと考えるべきよ。そうすれば、幻想にフォーカスしなくなるし、とても前向きな結果が得られる。」(初版、p35)と、どう姿勢の改め方も書かれている。

「他者を神にほかならない完全無欠なものとしてとられると、自分自身のことも徐々に同じように、そう経験するようになるわ。」

「出会う人全員の霊(スピリット)のほんとうの姿を目撃することよ。」

これらのアドバイスにしたがって、私も「この世を幻想」としてとらえることから、「出会う人はほんとうはみな完全無欠な神なる存在」という本質を見ることにシフトしたいと思った。

出会う人みな、勝手に「かぞく」にするぞ

そして、何の番組かテレビで誰かが、「かぞく」というものを血縁や親戚関係のある「家族」からもっと広い意味で「かぞく」としてとらえ直したい、みたいなことを言っていた(なんとなく聞いていたので主テーマは何かわからないけど)。それを思い出した。

ひとり身でひとり暮らしの私。母はいるけれど、自分の家族は作ってこなかった。それを寂しく感じることもある。だけど、思いきってこれから出会う人をみんな「かぞく」としようではないか。ふとそう思った。

出会う人は、「完全無欠な神なる存在」であり「かぞく」だ。

はたしてこのお題目はどれだけ覚えていられるか。それがまずはお題―。