実践はむずかしい、やっぱり

2017-01-18

赦すことのむずかしさ

『奇跡講座(ACIM)』の根幹は、「赦すこと」だろう。それは、一般に私たちが使っている「許す」とはまったく異なる。

この世はそもそも非現実。自分の「神から離れた」という勘ちがいからもたらされた無意識の怖れや罪悪感を投影して見ているに過ぎない。出来事や引き起こした人は、自分の怖れや罪悪感が呼びこんだものであり、その非現実性をわかってゆるす、ゆるめる、手放す。

これが、ACIMでいうところの「赦す」だ(私の理解によれば、たぶん)。

赦すことによって、自分の勘ちがいが取りなされ、真実を見る目がより開かれる。

こういったことは、3年位勉強してきたから、概念としてはわかっているつもり。

しかーし!

実際に、自分のゲンジツに「不都合」がひとたび起こると、たちまち難しくなる。

私たちはこの世、仮初めの姿である「私」を通して、ACIMを学ぶばかりだ。だから、ゲームキャラクターとしてロームプレイゲームの中を進みながら、一方で、難しい局面に面しても「これはゲームだから」と俯瞰して「ゲームをしている人」の視点を持つ必要がある。

平穏な時はACIMの考えはわかった、と思う。だけど、ひとたび、些細なことであっても、何かゲンジツに不都合なことがあると、たちまち学んだことがわからなくなってしまう。概念を思い出したとしても、では、このゲンジツでどうふるまうのが本当なんだろう、とわからなくなってしまうのだ。

たとえば、この世が非現実だからといって、病気になっても放置する、ということではないだろう。

これは極端な例かもしれないけど、ゲームキャラの私にとって赦すとは、この場合、どうしたらいいのか、と思うことが多い。

渦中にいると「赦し」を忘れる

去年秋からいただいた仕事でも、またわからなくなってしまっていた。

あるヒアリングの仕事でお会いしたことからあるコンサルタントの先生に声をかけていただき、「ある3月までのプロジェクトがあるのだけど(このヒアリング報告書みたいに)月1回報告書をまとめてくれない?」と言われた。初めての方から仕事を依頼されるのは、ありがたいことだ。

ヒアリング報告書と同程度のものを月1回であれば全然問題ない、と思ってありがたくお受けした。月1回程度のことであれば、金額もいくらでも、と思い「お任せします」とお答えした。

実際始まってみると「この日も参加して」「この日も」と指示があり参加することに。いったい自分の仕事の範囲がどこまでで、いつまでに、なにを、どのように、がわからず、不安が膨らんできた。

また、実際どのようなものを求められているのかもちゃんと理解できていなかったが、自分なりに求められているものを作るのに、前回の報告書の4、5倍も時間がかかってしまった。こんなに時間をかけて、いったいいくらになるのだろう。

そもそも私は交渉事が苦手。こうしたことは昨年末までにすっきりさせたいと思いながら、面と向かって話し合う機会が持てず、年を越してしまった。メールでそれとなく伝えたつもりなのだけど、伝わっているのかいないのかスルー…。

「これは、リアルじゃないのだから、こうしたことに不安を抱える私はACIMの教えに反しているのかも。確かめたりしないでこのまま進むべきでは?」

「いやいや、ビジネス上でのやりとりなんだから、何を、いつまでに、いくらかを聞くのはあたりまえのこと。それを確認しない方が、この世のゲームではおかしいのでは?」

自分の中で問答をしながら、こじらせてしまったらしい。とにかく、新年最初に会った時には、切り出すぞ、と考えると、夜も眠れなくなってしまっていた。

そして、切り出した。

伝え方がヘタだったかもしれないけど、確かめたいこと(仕事の範囲、納期、金額等)を明らかにしてもらえた。そして、ほっとできた。

しかし、一方で、「プロなのに、こんな細かい指示までしなくてはいけないの?」と驚いた、とも。若干傷ついた。相手の方も同様に傷ついたもしれない。

「行動」と「心の姿勢」

『神の使者』を再読中である。ついこの前、アサンディッド・マスターのアーテンとパーサが、著者ゲイリーに「愛には不平不満はいっさいない」というレッスン68の教えを強調していた部分を読んだ。「不平不満を捨てようという意欲は、あなたのほんとうの生命にとって大切なのよ」とパーサ。

私が抱いて訴えたことは、不平不満なんだろうか。確かに、進め方に不満ではあったことは事実なんだけど。

…こう考えている時点で、ゲンジツに巻き込まれて見えなくなってしまっているということなんだろう。不平不満は原因ではなく、結果として起こっていることだ。

すべては投影して自分が映し出していることなのだから。

一方、ACIMの考えに沿った場合、この世でどういう行動をとるのが正解なのか、実はよくわかっていない。

『神の使者』のアーテンとパーサの2回目の訪問時には、アーテンが「われわれが関心をもっているのは、きみたちの行動と見えるものではなくて心の姿勢なんだ。」と言っている。

少し冷静に物事を見ることができるようになった今、行動の正否をふりかえるより赦すという心の姿勢を確かめたほうがよいのか。

正直言って、心には未だ微かなざわざわ感がある。

でもやはり、相手の方には、鏡となってくれて私自身を赦す機会を与えてもらったこと、感謝したい。

2017-『神の使者』 再読中

2017-01-14

お正月気分も抜け、東京のまちも日常のせっかち気味なリズムが戻ってきている。

この週末は、日本列島に「この冬一番の最強寒波が到来」しているらしい、冷える。北陸には大雪警報が出ている。私は毛布地のスカート(腰巻)を履き、「逆に、籠って仕事をするにはいい気候かも」とパソコンに向かっている。窓からは澄んだ青空が見える。

もう「お正月」が昔のことのように感じられるけど、去年から今年にかけての年末年始、丸一週間帰省。母と石川県の粟津温泉へ一泊旅行にも出かけた。パートナーや子どもがいない私にとって、肉親への愛(ACIMでは「特別の愛」と言われるものだと思うけど)は、母に向かってしまう。

かと言って、相性がいいというわけではなく、田舎では朝から夜まで一日中、ずっと話しかけてきて質問をしてくる母に、半日もするとヘロヘロになってしまう(ひとり暮らしで人と話すことが極端に少ないから、会話に応えることに3時間位で疲れる)。思考がまとまらず自分の考え事がまったくできなくなる。

この状態を、私は「脳ジャック(ハイジャックの脳版)」と呼んでいる。

東京に戻って脳ジャックの状態を解かれて、だんだん「それまでの自分」を思い出すのが、いつものパターン。こんな不器用なのは私だけなのかもしれない。

例によって、ACIMからも離れてしまい、、、年始に戻った一人の部屋で、「あれ、何だったんだっけ?」「私はだれ?」という始末だ。

いつも、ACIMから離れたと思った際に、戻っていくツールというか、プロセスというか、、、が、私にACIMを紹介してくれた本、『神の使者』だ。

で、今週になって『神の使者』の何度目かの再読を始めている。分厚い本なので最後まで読み終わらないこともあるけれども、この本を読んで感覚を思い出してワークに戻っていくのが常だ。私とACIMをつないでくれる存在なのだ。

まだ、アーテンとパーサの3回目の訪問のところを読んでいるところだけれど、ようやく、またワークを再開できそうな位に、自分と環境が整ってきた。本当は、どこにいて、どんな環境であろうとも、ワークができる自分になることが課題なんだろうと思う。

去年のメモを見て、2016年5月23日にワークブックをレッスン1から再スタートしたこと、12月16日レッスン79までやったことを思い出した。

時間と心にゆとりがある時しか、ACIMの勉強ができていないことに、「私にとって使命に近い大事なことと思っていたつもりだけど、単に趣味みたいなものなのかな」と、自虐気味に感じたりもした。

まあ、ともかく止めて離れてしまわないようにだけはしたい。

今年は、負荷がかかってもACIMのワークと勉強をこつこつと続けられるようにしたい。しよう。

あけましておめでとうございます

2017-01-02

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

    *    *    *

見ている方がいるとも思えないけど、新年のごあいさつを。

想定以上に変化が大きいご時世、無事今年も故郷で母と新年が迎えられたことに、感謝!

穏やかで健やか、穏やかな年になりますように。

 

昨年はACIMワークを再度始められたことが、自分の中での「今年のできごと」だったけど、

それが12月には「中断してしまった」のも、また「できごと」。

中断したまま年越しした。

今回の帰省ではACIMのテキストもワークブックも、『神の使者』も持参しなかった。

東京に戻ってから、また、ぼちぼち再回転していこう、と思う。