2016-11-15
レッスン74-神の意志のほかに意志はない。
レッスン74は、神の意志の表現である私たちには、神のゴールをおいてはほかにゴールはない、と確認させる。
それはまた、
幻想がなければ、葛藤は不可能である、
という確認でもある。
そして、幻想も葛藤もなく、神のゴールだけを意識している者には、実相から平安の感覚がもたらされる。遮断物がなくなってクリアに感じることができるようになるから、あたりまえに在る平安が感じられるようになる。
その平安を経験しようと努めるのが、レッスン74の中心だ。
「神の意志のほかに意志はない」という主題概念によって心の焦点を定めた後、葛藤が浮かぶようなら、
神の意志のほかに意志はない。これらの葛藤する考えは無意味である。
あるいは、特に難しく思えるものについては、
神の意志のほかに意志はない。私はそれを神と共有している。
○○についての葛藤は実在するものではない。
などと自分に向かって言い、心を整えてから平安を感じる瞑想ワークに入る。
負荷がかかるとワークできなくなる…
このワークの中で
もしうまく言っていれば、眠気や気力の減退などではなく、深い喜びの感覚と、鋭敏になった感覚を感じるだろう。と説明がある。
私は何度かワークをしたが、平安には至らなかった。並行して抱えているいくつかの仕事が気になり、目をつむっても、段取りをしていたり、締め切りが気になったりと、ワークをしている時間自体が気になりだして、集中できなかった。かと思えば、眠気を感じてコクン、と首がたれることもあった。
もう、何年もACIMワークをやっているのに(つもり)、シンプルな瞑想ワークさえ身についていないことを確認した。
3年前の第一回目のワークの時はどうだったのかな、とふと思い、昔のノートを見てみたら、この時も似たような状況で、ライターの仕事の締切に追われていた頃で、1つのワークに2週間くらいかかっていた。
どうも私はある一定以上不可がかかると、もうテンパって、ワークが手に付かなくなるみたいだ。
もちろんレッスン74の説明にあるとおり、この葛藤は実在するものではない。が、そうは思えなくなってしまう。
「時間がない(だから)⇒できない」
のではなく、
「私のものの見方が実相ではなく幻想に焦点が合っている(だから)⇒時間がない、という幻想を見ている」
のだ。
そう、要するに、私のエゴの抵抗なのかもしれない。フリーランスがいくつかの仕事を並行してやるのはあたりまえのこと。私の「時間ない」なんて、忙しい人から見たら、スローモーションで動いているかたつむりみたいなものだろうし。つまり相対的で意味ないことなんだ。
しかも仕事があるのは、ありがたいこと!
…このワークから今の自分の立ち位置が確認できたかな、という感じかな。
要するに、忙しくでもヒマでも、文句を言っている、てことかな。
最近、ひとり暮らしの私は、晩ご飯んにひとり鍋ばかり食べている。
あ、去年もそうだっけ?
覗いてみた3年前のノートには、3年若い私がいて、今と状況もけっこうちがっていて、かわいいこと言ってた。変わらない私と変わっていく私かぁ。