幸せとは、ありがたさ、かな

2016-11-13

半年に一度の検査

今日は小春日和の日曜日。まちの空気も少し和んでいる(家の前の道の交通量が少ない)。

一昨日は冷たい雨の一日で、正午の気温が8.9℃と冬のような寒さだった。いよいよコートの出番だ。

私は、前週、“臨時休業”だった病院に行ってきた。

何年か前に検査の結果、医師からある臓器の全摘を進められたけど、ネットでいろいろ調べた結果、私なりには「(現段階では)必要ない」と感じ、先生にその旨お伝えして経過観察を続けている。

半年ごとの検査のみ。原因不明で、痛みや苦痛などの症状もなく、薬を飲んだり治療したりもないから、ふだんは病気ということを忘れている。

だけど検査の結果、何かしらの変化があってやはり手術、ということにならないとも限らない。半年に一度のこの日…、重病で床に伏せっている人などから見たらたわいもない状況なのかもしれないけど、ビビリの私にとってはけっこうキンチョーな日なのだ。

しかし、この病院、すごい人、人、人…。まるでイベント会場で待つ人のような混雑さ。みんな一見元気そう(私もそうだ)。人は見かけではわからないものだなぁと思う。

ACIMでは、病気もまた「自分の罪悪感」の自身の身体への投影とみなす。つまり、病気は私が作ったものだ。これに一喜一憂して病気という幻想をリアルにしてしまうことはACIMの教えに反する。

そもそも神の子が見ている分離という夢を形にしたものが、個々の身体だから、身体に大きな意味を置いてはいけない、と学んだ(気がする)。

そうはいっても、幻想のゲームに参加中の私にとっては、やはり大きな問題。外科手術というのは、それこそ(実際には起っていない)分離の象徴ではないか。それをリアルにはしたくない。

受付してから4時間ほどで自分の診察の番が来た。ドキドキしながら、検査結果を覗きこんでいる先生の前に座る。

…結果としては、大きな変化なし(先生は「誤差の範囲」とおっしゃったが、むしろ、良くなっていると解釈した)、また「半年後に検査」で、経過観察続行ということになった。

幸せは、ありがたさかな、我まさに

ほっとして、そこはかとなく、嬉しさが湧いてきた。

やっぱり私、気にはしないようにしていたものの、不安だったんだ。

よかった。ありがとう。よかった…。聖霊さんに護られているようにも感じた。また半年の自由が与えられたようにも。

トランプ旋風のあおりを受け、わが微々たる株資産は、かなりのダメージ(日経平均と連動せず、大損(^_^;))。だけど、それが何するものぞ。

私は元気だ。病気も自分で治す。

帰り道は、沁みる寒さも心地よく、

「ありがたい、ありがとう、幸せだ、ありがたい、ありがたい、ありがとう、よかった」と心の中で唱えながら、スキップして帰りたいような気分だった。

そう、私は幸せを感じていたのだ。

で…あっと気づいた。

お金払ってなかった!

駅までの道を半分くらい進んで、くるりと向きを変えて、お会計へ。

再びの帰り道、ふと思ったのは、

幸せとは、ありがたいと思えることかな、と。

何かビッグな幸運が訪れることではなくって、

ほこほこと、ありがたさが湧いてくることかな、と。

この喜びは私が身体に重きを置いている証拠なのかもしれない。結果がよくて喜ぶことは、結果が悪くて嘆くことと同じくらいACIMに反したことなんだろう。結果がよかった、というのもまた二元論の幻想。身体などそもそもないのだから。

でも、、、冷え込む夕暮れ、病院から駅へのキラキラとしたショーウィンドウの通りを歩きながら、私は、しみじみとありがたさと幸せを感じていた。