2016-11-06
三週間ぶりに、朝起きて散歩した。
コースはずっと何年も一緒。約1時間と15分の散歩。
途中には小さな緑地があってそこでは深呼吸する。川にはカモみたいなのもいる。中間地点では神社に寄ってお参りもする。帰りはスーパーにもよって、ヨーグルトや野菜を買ったりする。
今日は、日差しがやわらかく、ぽかぽかしているけど暑くはなくて、ちょうどいい陽気だった。
三週間来ないうちに、季節が進んだのを感じた。
ACIMワークの方は、昨日レッスン73を再開することができた。
久しぶりに読んだ『神の使者』は忘れていて新鮮に感じるところもあって、くりかえしくりかえし読むことが大事だな(私にとっては)、と改めて思った。
赦しの実践は一朝一夕には身につかない。
私は、赦しこそが私たちを幸せにするものだと知っているつもりだけど、実際にこの世で赦しが必要な時には、すっかり忘れていて自分を正当化してしまっていることが多い。
だれかのせいにして責めることに慣れているし、その方が楽だし(その瞬間は)。
『神の使者』を改めて読むと、いかに自分がわかっているつもりで、実践できていないか、ということがわかる。
この秋は、「さみしさ」を感じることが多かった。
「さみしい」ということは、エゴから見ているということだろう。神からの分離を、この世に映し出して見ているのだ。
「赦す」こと、この世のゲンジツを幻想だと知って手放すこと、どれも観念的にはわかっているつもりだけど、それを実際毎日の生活のあれやこれやのなかで、どう実践したらいいのか、となると、わからないことだらけだ。
人への相槌ひとつとっても、ぎこちなくなってしまう。
私は人一倍強固なエゴを持っているようにも思う。
赦すことができないがために、赦しのチャンスに出会わないように、関わりを避けているところすら、あるかもしれない。
でも、まぁ、ぼちぼち行こう。
この世の正体は、罪の意識と自己嫌悪だ。それを直視できないがために他者に投影してスケープゴートを求める。
そういう意味では少なくとも、昔より、自分が嫌いではなくなっていると思う。むしろ、ACIMをわずかながらも進めている自分をかわいいとも感じる。
今日のお日さまが穏やかであったかい。
それだけでも十分なんだろうなぁ。
ACIMと出会えたことで、道筋ができた。光はある。
そして、
神はある(God is)。