レッスン71-神の救済計画だけがうまくいく。

2016-10-21

「もし、○○だったら…」というエゴの救済計画

エゴ(自我)は、「神による救済計画に対抗する救済計画を持っている」。しかし、それはうまくいくことはない、神の救済計画だけがうまくいく、というのがレッスン71の主題だ。

エゴの提案する救済計画は、私たちが持つ不満を中心としている、という。

もし、あの人があんなふうでなければ…

もし、会社がこんなんでなければ…

もし、あの時、あんなことが起きなければ…

育った環境がこうでなければ…

(もっとちがった、幸せになれたのに)

こんなことを全く思ったことがない人はいないだろう。

これは、短期的に見ればたしかにそんなふうに思える。しかし実際にはそうではない、とACIMは言う。

自分の幸せの源(救済)は実は、自分の心の中にある。それを見ようとしないで、外にばかり求めても期待した幸せや安らぎには息づかず、結局は徒労に終わる。

それが、「求めよ、されど、見つけることなかれ」という自我の基本的教義に基づいた、エゴの救済計画だという。

私自身、何度も転職しているし、結婚したけど離婚したし、店を開店してまた閉店したり占い師をしてみたり…とACIMに出会うまで、ずっといつもこれではない何か、ここではないどこかを求めてきたような気がする。

まさにエゴが描いた救済計画を着々と実行してきた。

『神の使者』に出会って、わからないながらも何度も読み、ACIMのワークを始め、ようやく「これだ」「ここだ」と思えた気がしている。つまり、神による救済計画にシフトチェンジを図っている最中なのだ。

レッスン71に含まれる2つの部分

本ワークでは、今日の主題概念には2つの部分が含まれていることを理解する。

神による救済計画はうまくいくということ

そのほかの計画はうまくいかないということ

ワークブックにも触れられていたが、この2番目に、私たちは大いに落胆したり、もっと言えば恐怖感を覚えるのではないだろうか。

今も私を含めて大多数の人が信奉しているのが、「そのほかのの計画」だから。このゲンジツの世に生きているかぎり、「そのほかのの計画」をまったく手放すのはむずかしいように思える。

この資格をとれば…

ダイエットをすれば…

この薬、サプリを飲めば…

この商品があれば…

これに参加すれば…

この大いなる幻の資本主義社会全体が「そのほかの計画」のやりとりで廻っているのだから…

そして、私もその夢を買ってひとときの満足感を得ている。

私は理解できていないかな?

「そのほかの計画はうまくいかないということ」は、「だからすべてやるな」と言っているわけではないよね。。。そうであれば、身動きが取れなくなってしまう。。。

盲信したり執着するのでなければ「そのほかの計画」は「あり」でOKだよね?

それとも、私がすべての「そのほかの計画」を完全に手放したら、見える世界もまったくちがったものになったりするのだろうか。

そこがわからないでいるから、ワーク自体に恐れを感じてしまうのかもしれない。

神への質問と、その答えを聞く怖れ

このワークの長いほうのワークでは、神に

私が何をすることをお望みですか。

私がどこにいくことをお望みですか。

私が誰に何を言うことをお望みですか。

と尋ねる。

これが私には怖かった。

突拍子もない答えが帰ってきたら、どうしよう?

そのために生活や人生を大きく変えなければならなくなったら??

これに対するワークブックの答えは、

聞くことを拒んではならない。あなたがこの演習を行っているという事実そのものが、あなたには聞きたいという意欲があることを証明している。」

なんときめ細やかな、かゆいところに手が届くワークブックの教えだろう!

私がワークから得たメッセージ

このワークは足踏み状態で何日かやった。

印象的だったのが、19日の朝のワークから感じたことだった。

今回の急ぎのプロジェクト、いろんな方からヒアリングしたり観察調査をしたりしてまとめることだが、中間発表の締め切りまでにちゃんとまとめられるか、不安に思っていた私に対して、ワークから得られたメッセージは、

「まず、気を落ち着かせること。

そして、私の使命は、ACIMとこのゲンジツの世をつなげることなのだから、今回のプロジェクトの中でも私の役割はある。

関係者みんな

じつは恐れを抱いている。

自分の無知や無能がばれること。

プライドが傷つくこと。

えらい人から嫌われること。

そして、私も(外部者だけど)その一員。同じように、自分の無能っぷりがバレることを恐れている。

まず、恐れなき気が落ち着いた状態で立つこと。

それ自体でも価値があり、

そして、恐れなき場をつくり、話すこと。

それは価値がある。

そして、もう少し前へ出ること。

出会う人々の魂のとびらをノックすること」

これが、私が受け取ったと感じたメッセージだ。

昨日のヒアリングではこれを意識した。

ますます間の抜けたおばさんっぽかったかな。。。(^_^;)

「初心者クラス」⇒「初級者クラス」へ?

この3年間は、時間もゆったりして守られた中でACIMの勉強(主にワーク)をしてきた。それは聖霊に護られてつくられた「特別な環境」だったのかもしれない、と今思う。

よく講座かなんかに「初心者クラス」「初級者クラス」「中級クラス」…とあるが、私はこの「初心者クラス」、「ビギナークラス」だった。

そして、これからは次のステップ…「初級者クラス」なのかな?

ひとり静かな護られた場だけではなく、いろんな人と交わった環境でACIMを学んでいくのかもしれない、と思った。

ともかく今は「これだ」と思えることに出会えている。そう思えることがとっても幸せだ。

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