レッスン66-私の幸せと私の機能(はたらき)はひとつのものである。

2016-10-04

私の幸せと機能(はたらき)の三段論法

レッスン66は「私の幸せと私の機能(はたらき)はひとつのもの」、すなわち同じものだと言っている。

そして、それは以下の三段論法からなるという。

 神は私に幸せだけを与える。

神は私に自分の機能(はたらき)を与えた。

 だから、私の機能は幸せであるに違いない。

そして、前提2つが正しければ、今はこの結論についてどう感じていようと、これが正しいと言える。レッスン66ではそのしくみを理解するようにと求めている。

この三段論法はシンプルに見えるが、むずかしく感じた。いや、むずかしいと思っているだけで、実はすごくシンプルなのか。。。

神は私に幸せだけを与えるか、否か

まず、① 神は私に幸せだけを与える。

ここには、私たちが神さまを自分がどう定義づけしているかが、表れるだろう。神を自分に“幸せだけを与えてくれる存在”と認めるのか。それとも、自然災害を初め病気や貧しさなど、この世の恐怖や欠乏のかたちを神が創って与えたものとみなすか。

愛なる神はこの世を創ってはいない。

これがACIMの一元論の根幹だ。私たちが見ているこの世は、エゴが創りだして見せているもので、エゴは幻であり、すなわちこの世も幻。リアルなものではない。

だから、この世で私たちが目にしている恐ろしいこと、ひどいことはすべてリアルではない。どんなにリアルに感じたとしても。そして、

愛と豊饒である神は、私たちに幸せだけを与える。これはACIMの神の見方に立てば、非常にわかりやすい。

ワークブックのこの部分で私がおもしろいな、と思ったのは、

愛は邪悪なものを与えることはできず、幸せでないものは邪悪である」というフレーズだ。

幸せでないものは邪悪(what is not happiness is evil)」とはなんという斬新で強い言い回しだろう!ちなみに大畑学さんの『A Course in Miracles Workbook精読 Lesson 31 ~ Lesson 60』では、「幸せでないことは悪しきことである」と訳されていた。こちらの方が少しやわらかく、受け入れやすい。

つまり、ACIMで神さまは私たちの幸せを願い幸せだけを与えている、ということ。

私たちはともすれば、辛いことや無理を重ねることが尊いことのように思っているけど、そうではない。「幸せは善」「幸せでないのはよくないこと」なのだ。(私の解釈が合っていれば)

これは無意識に自分を「罪深い存在」と思っている私たちには、拠り所となる心強い概念ではないだろうか。

ここでいう幸せとは、私たちが日ごろ口にする感覚とは少し違うのかもしれない。頑張った後の解放感や快楽的なものというより、安心したしみじみ穏やかな感覚なのではないかな、と思う。

神は私たちに幸せだけを与えてくださる。そういう存在だということ。

この真実がどれだけ私たちの心をなぐさめ癒してくれるだろう。

聖霊とエゴのどちらを導き手とするか

② 神は私に自分の機能(はたらき)を与えた。

これについては、私たちは心の中には、エゴによって支配されている部分と、神の使いである聖霊の拠点となっている部分、二つの部分があるとくり返し記されている。

そして、エゴが拠るものは幻想であり、聖霊の拠点には神の真理がとどまる。そのどちらを導き手として選ぶのか。

それによって私たちが機能(はたらき)とするものはまったく異なる。

今日のワークは、このことについても考えさせる。

そして、無意識にエゴを導き手として選んできた私たちが、エゴがお勧めした私たちの機能(はたらき)のかたち(目標)を追求してきて、その結果、どうだったのか。正直にふりかえってみるよう迫る。

「あなたは幸せになっただろうか。それらの方法はあなたに平安をもたらしただろうか」

この質問はかなり核心を突いているように思う。

夢や希望、野心を胸に人生の大舞台に飛び出して、いろいろやってみて、40代も半ばにさしかかると、願ったものを手に入れていようといまいと、

「あれっ、こんなはずだっけ?」というふとした思いはだれの胸にも浮かぶのではないだろうか。

後半部分で、私がおもしろく感じたのは、エゴの提案したはたらきから幸福が得られると思ったのは「reasonable(リーズナブル)」だったかどうかよく考えてみるように、と書かれているところだった。

『奇跡講座 ワークブック』では「分別あることだったかどうか、よく考えてみなさい」と訳されているが、私は、日本で買物などによく用いる「リーズナブル」の意味で聴こえてしまった。

そして「いや、エゴのお勧めは、一見魅力的だけど最終的にはすべて剥ぎ取られてしまう、リーズナブルとは言えないかも」と思った。それが、「分別ある」という本来の訳より、私にはわかりやすく腑に落ちた。

そう、私がACIMをすばらしく、魅力的に感じているのは、何を隠そう、この「reasonable(リーズナブル)」な感じだ。

こっちの考えの方が、理にかなっている気がするし、しかも得なのだ。だって、恒常的な幸せが約束されているのだから。

私たちのはたらき=私たちの幸せ

 だから、私の機能(はたらき)は幸せであるに違いない。

①で神を愛と善と見て、②で導き手として神の使いである聖霊を選ぶなら、私たちのはたらきは幸せであること、となる。はたらき(原因)の結果として幸せになるのではない。

はたらき=幸せなのだ。

そういえば、ふと思い出した。私は組織的な宗教には関心ないが、10年位前、ブックオフで、宗教法人白光真宏会の開祖、五井正久さんが著された『ハイスピリットは上機嫌』という古い本を買って読んだ。いつでも「機嫌よくあれ(in high spirits)。」という内容がとても心に響いたことを思い出した。

本棚から探してみた。

『悪をつかんではダメ。悪は間違った想いの消えてゆく姿。実在するものではない。ですから本当の自分だけをつかめばよい。
 本当の自分とは何か。上機嫌の自分です。
 明るい自分、柔和な自分、光り輝いている自分です。』(『ハイスピリットは上機嫌』p16)

これはACIMの教えに通じるものがあるのではないだろうか。

今日のワークの内容がすっとわかったわけではない。でも、

「私のはたらきは幸せであること」と

「上機嫌でいること」は、改めてACIMの道の道しるべにしようと思う。

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