2016-07-14
「罪悪感が地獄であるなら、その反対は何だろうか」
レッスン39はこの問いかけから始まる。これは、そのままに答えてみたら、「無辜(罪のないこと)こそは天国である」になるのかな?よくわからない。
「そもそもあなたは罪悪感が地獄であると信じているだろうか」とも、問うてくる。私は、ACIMをテキストというより『神の使者』から浸透させていて、それによれば、「神から離れてしまった」という勘違いの罪悪感からエゴが生じこの「地獄」ともいえる幻影世界を作り出したと説明があるから、私の理解が間違っていなければ、そうなんだろうと思っている。
ワークブックの説明の抽象性が増してきて、むずかしくなってくる。自分の理解も中途半端でワークをするだけで精いっぱいだから、完全な理解もしないまま。私は誰に向かって、ブログを書いているのかも定まっていないから、ワークの内容を説明した方がいいのか、感想を書いた方がいいのか…ということさえも迷走している。ACIMの概要を知らない方にとっては、ふと目にしたこの独り言はとっても奇異なものに感じるだろう。
完全に理解できているわけではない。それでもワーク中の文言
「あなたの聖性はあなたに属するというのに、どうしてあなたが聖性から除外されたりすることがあるだろう。神は神聖ならざるものを知らない。神が神の子を知らないなどということがあるだろうか」には、心に強く響くものを感じる。
このワークでもそうだけど、ACIMで特徴的なのは、不安、憂鬱感、怒り、恐れ、心配、攻撃、不安定感などをすべて「愛のない考え」としていることだ。これらの大元は、「恐れ」であり、それがさまざまな形をとって現われているとしている。
すなわち、愛の反対は恐れである。
そして、愛のない考えが私を地獄に閉じ込めている。私の聖性が私の救済である。
…と自分にしみ込ませる。何日か停滞していたけど、昨日、ようやく1日4回のワークができた。
昨日は、月1回の心理学系のカルチャー講座の日でもあり、講座の後、夜の喫茶店でみんなでハフハフしながら、熱~いドリアセットを食べた。この昔ながらの喫茶店は、「コーヒー500円」、「ドリンク、サラダ付きのドリアセット730円」というヘンテコな価格設定で、つい夜遅いにもかかわらずドリアセットを頼んでしまう。
独りすぎな私には、たわいもないおしゃべりが幸せだ。ドリアのクリーミィな感しがその幸せ感を増してくれる。