レッスン34-私はこれを見るかわりに平安を見ることもできる

2016-07-03

レッスン34

おとといときのうはレッスン34をやった。でも1日朝夜と間にもう一回、計3回の瞑想ワークが提唱されているのに、夜のワークができていなかったことに気づき、今になってやった。

このワークは、セミナーの仕事にキンチョーして大騒ぎしていた私には、ゲンジツ的な面でも大いに役にたった。私がこの経営セミナー講師の仕事をやらせてもらったのは2010年でビギナーというわけではないのだから、毎度毎度大騒ぎするのはヘンだとは思うのだけど、人前で話すということ、とくに自分で成功しているわけではない経営的なことを話すのは、どうも気後れがしてしまう。でも自ら断ることはしない。

今回はとくに、主催者の方から「前回は講義中心だったけどもう少しワークやディスカッションなどを入れてください」と「ダメ出し」を受けて、セミナーというよりワークショップに近いかたちにプログラムを最初から見直さなければならなかった。私は、どうも仕切りが下手だ。ふだん、こもりがちで人とも話さない者がいきなり本番で何十人もの人をうまくファシリテートできるのか、できはしなくてもなんとか無事進められるか、と不安が大きかった。

レッスン34の瞑想ワークをやってみると、私がすでにキンチョーでかちこちになっていることがよくわかった。

勉強のため読んだ『ワークショップ入門』という本には、ファシリテーターのキンチョーや思いが参加者の方に伝わり、ワークショップの成否を決める、とあって、プログラムをどう構成するかばかりに気を取られていたけど、それ以上にゆったりとした気持ちでその場にいること、それこそが私の役目なのだと気づいた。

そして、キンチョーとドキドキする心臓に対して「私はこれを見るかわりに、平安を見ることもできる。私はこれを見るかわりに、平安を見ることもできる」と繰り返しているうちに、少しずつ平安を感じることができるようになった。平安こそがしごとである。

そして、これをなんとか無事終えられたことに、心から感謝の念が湧いてきたのだ。再来週もあって、そちらはまた別の内容だからどうなるかわからないけど、とりあえずいったんほっとした。

バングラデシュのテロ事件

バングラデシュの首都ダッカで武装グループが飲食店を襲撃して日本人7人が死亡したテロ事件のニュースをやっている。

善意の日本人が巻き込まれ死亡した事件に日本中の人が理不尽さと悲しみを感じたと思う。だれがどこで恐怖の事件に巻き込まれるかわからない時代になったともいえる。

こうしたテロ事件を目にすると、ACIMの見方をとることが揺らぐ。私自身の体も、この世のゲンジツも実は、私たちはエゴを選んだがために見えている幻影にすぎない、と思っている。だけど、巻き込まれたのが、自分の家族や自分自身だったらそう思えるだろうか。怒りと憎しみに狂うのではないだろうか。

移ろいゆくこの世は現実ではないけど、その「ゲーム」の中に入っている私にとっては、正しくリアルだ。私はACIMを学んでいるとはいってもまったく進歩していないのかもしれない。

テロは恐怖玉、憎悪玉を投げつけることによって、その恐怖、憎しみが伝播し、さらに不安、不信をくっつけてどんどん膨らんでいく。

私は「結果」の世界にいて、私に、神から離れたという無意識の罪悪感、恐怖感という「原因」があるから、テロ事件がこのように見えているのだと思う。だけど、こういう事件が起こった時ACIMの見方を堅持することにまだ脆弱さがある。

私の見方が心眼のそれになった場合には見えてくるものは違うのだろうか。

レッスン34をくりかえそう。

私はこれを見るかわりに平安を見ることもできる。

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